元教頭 鈴木眞夫先生(平成15年3月退職)

思い出ポロポロ ――すでに秋声――

元教頭 鈴 木 眞 夫(平成15年3月退職)

 

 

鈴木眞夫先生 昭和39年4月、中央大学杉並高校へ講師として奉職。1期生の2年世界史を担当。翌40年専任となり、2期生の2年B組の担任となる。その後卒業生は3期生のC組、7期生のC組、11期生は1・2年は男子クラスであったが、3年生は女子で3組。16期生の2組、21期生の2組、26期生のA組、32期生の1組、36期生の8組と計8回送った。
 それぞれに思い出深く、球技大会・体育祭・緑苑祭と生徒と共に燃え、それぞれの学年で種目優勝をプレゼントしてくれた。中でも21期生の3年2組は、球技大会ではバレーボール、バスケットボール、ハンドボールと全種目を制覇して完全優勝。最後に優勝を決めたハンドのメンバーは全員がガチガチとなり、1点差で優勝を決めた時は虚脱状態であった。

 
 クラブ顧問としては地歴部を受け持ち、毎年夏季合宿で各地の名所旧跡を訪ねた。特に平泉や遠野が印象深い。この間、2年だけであったが新聞部の顧問も兼任。その後、民族同好会が11期生により設立され顧問となる。日帰りの大多喜城見学。夏季合宿は飛騨高山や遠野へ行く。楽しい合宿を経験した民研も会員不足で休会。その後、23期生から漫画研究部の顧問となり、38期生の1年まで継続。その間、31期生のハンドボール同好会設立により、漫研と顧問を兼任。この同好会は、学校の施設を使用しないという条件で認められたもので、毎週水曜と土曜日に中大附属で合同練習。他校への遠征練習はきつかったが、よく堪え技術を向上させた。卒業後もよく団結している。36期生が3年の時に引き受け手がいず、急遽野球部の顧問となる。試合や練習時の怪我が多いため必ず帯同。その為、日曜・祭日一切なし、夏休みも冬休みも5日間休めただけ。しかし、成果はあがり、夏大会で36期生・37期生は4回戦に進出。特に37期生は中大附属に大逆転勝利で感激一入。38期生は1回戦でシード校に3-5で敗れたがよく善戦し、大満足。39期生の今年は打撃がよく大いに期待している。

 
 以上、中杉39年の思い出を記してみたが楽しいことばかりで卒業生の皆様に感謝。生徒と一緒に活動するをモットーに過ごしてきたが、動きの悪くなったのを痛感。すでに秋声を聴き、退職を決意。

 
 長い間、ありがとう。今後もよろしく。

 

 

鈴木眞夫教頭先生の退職

副校長 堀 口   興

 
堀口興先生 今からちょうど40年前の昭和38年、中大杉並高校は創立された。この創立期に奉職された先生方が定年退職の時期を迎えている。その中心は昭和14年生まれの先生方だ。当時「14年組」と呼ばれ、亡くなられた国語科の与儀先生、社会科の鈴木先生、松村先生、英語科の山本先生、理科の堀口でなんと6人もいた。

 
 14年組は結婚する時期も子どもの年齢もほぼ似ていた。今からして思えば中大杉並高校が発展し現在の礎が出来上がっていく時期と、この6人が教員として成長していく時期と一致していた。何人かの先輩教員の指導のもと毎日忙しく、教員室は遅くまで電灯がついていて活気があった。それでも毎日が充実していて楽しかった。生徒と一緒に先生も青春だった。

 
 14年組の一人である鈴木眞夫先生は、本来の定年まであと2年の余裕を残し、この3月31日をもって退職された。草創期に奉職されたベテランの先生から中堅・若手教員へのスムーズなバトンタッチを考えての勇退だ。

 
 鈴木先生の授業は面白いと評判で、教科書には出ていない歴史の裏話に人気があった。先生の影響で文学部史学科の西洋史や東洋史専攻に進学する生徒が少なくなかった。

 
 趣味の囲碁は5段で強かった。さすが最近では、碁を打つ姿は見ないが物事を深読みできるのは、この囲碁で培われたものであろうと推測する。

 

 鈴木先生はこの2年間、教頭として活躍された。教頭という激務にありながら、昨年は9時間、今年は6時間「世界史」の授業をこなした。教員として現場から離れたくないという考えである。3年前から野球部の顧問という激務も引き受けていた。今年度は、初戦にシード校と当たり3対5と惜敗したが、一昨年度、昨年度と2年連続4回戦まで勝ち進み、中附を破る金星を挙げるまでに成長させた。

 
 教頭になってからは研究日や日曜日、長期休暇も取れない状況が続いた。楽しみにしていたご家族との旅行も時々キャンセルされた。ご自身では何も言わないが身体のあちこちにガタが来ていると思われる。しかし、鈴木先生には、まだまだ中杉の発展に参画していただき、これから採用される新人の教育にも頑張ってもらいたいが残念である。

 
 先生、長い間お疲れ様でした。これからはゆっくり静養され、好きな読書や旅行を楽しんでください。