関 俊秀先生(平成15年3月15日ご逝去)

新しく変わる中杉を見守って欲しい

関 俊秀 (平成14年3月退職平成15年3月15日ご逝去)

 

関俊秀先生 杉朋会の正会員にしていただき、ありがとうございます。 私は東京理科大時代、数学の授業より卓球の練習の方が好きでした。同期の友人とは現在も付き合いが続いております。 私が杉並高等学校に奉職できたのは、卓球部先輩の高尾先生による所が多いと思います。

 

 入校は1期生が3年生となるのと同時でした。右も左もわからない大学卒業1年生が、すぐ2年生の担任となりました。 清水博士君がクラスをうまくまとめ?無事終われました。次年度も2年生担任。初めて卒業生を出せたのは5期生でした。

 

 3年D組の諸君とは友人の付き合いをしております。昨年私の還暦の祝いをしてくれました。

 

 入校当時、教員は若者が多く、毎日のように谷内田浩一先生指導の下に、荻窪で飲み多くの話を聴き、教員は一団となっていたように思います。

 

 私は芝高等学校卒業ですが、3年生の時東京タワーを作り始めていましたので、毎日できるのを見ていました。当然TVは見たことはなかったと思います。最近この10数年間のTV、パソコン等の進歩は夢のように思います。ただ若者は、 インターネット、携帯の使用方法がわかれば良しと思っている。私はコボル、フォートランの2つの電算についての理論を日本電子専門学校で学んだが何の役にも立たなかった。杉並高校では選抜コースで電算の理論のベーシックは教えております。

 

 学校の授業内容も本年より変わると思いますし、新しい教員も多くなり、高校創立時代の教員も減ってきました。新しい高校に変わっていきます。杉朋会の皆様、見守って下さい。

 

 私の長男、長女も30歳、独立しています。 私は4年程前から2年間ラドーという英会話に行っていました。ここは米国系で、各国から教員が来ていましたが、グループレッスンのためか実力はありません。4月より教員全員、イングランド人のケンジントンスクールに週1回行っています。今回は1対1で教員は同じ人です。週1回でも大変です。特別の目的はありません。

 

 最後に、酒で体調を崩し、先生方事務の方々に迷惑をおかけしました。皆様の助けがあり、杉高を退職することができました。37年間を忘れることは無いと思います。ありがとうございました。

 

(平成14年8月にお書きになられた文です)

 

 

関 俊秀先生とのこと

高尾 弘(数学科教諭)

 

とにかく痩せてましたけど、着るもの、履くものにはこだわってましたね。良く似合ってましたでしょ。おしゃれでしたよね。

 

昭和17年の早生まれでしたから、小泉純一郎首相と同学年です。高校違いますけど。私とは東京理科大学数学科で一緒でした。というよりも理科大の卓球部で一緒に練習した仲でした。私のほうが大学では1年上でしたので偉そうにしていましたが、実は私とも同期です。高校違いますけど。

 

昭和40年に中央大学杉並高校に数学科教諭として入職なさいました。私は1年前に就職していましたから、ここでも私は先輩です。思えば長いつきあいでした。中大杉並ではまさに同僚なのですが、つねに私を先輩として見てくださいまして、数多くの酒席を共にしましたが、そのような席でもことば遣い等、気をつかってもらいました。

 

ギタ-がお上手で、教員バンド「青い三角関数」のリーダーとして私ども音楽素人を指導して頂きながら(私もスチールギターを担当しました)、何年間かは忘れましたが、緑苑祭のステージで演奏いたしました。亡き与儀由幸先生の名司会のせいもありまして、勿論こころ優しい生徒諸君のおかげさまで、ステージは好評であったと自負しております。当時のボーカルには、安川定男第二代校長先生、高橋憲冶先生、松村光雄先生、児玉美絵子先生、太田洋三先生などがおられ、多士済済でした。

 

晩年体調悪くされてからも、英会話のお勉強は欠かさなかったと聞いております。また、お亡くなりになる直前にはいっさいの延命処置を自らお断りになったと聞いております。なんと潔い、男気のあることよと敬服いたしました。

 

お別れの日、桐ヶ谷斎場でのお骨あげの際、ご家族がご遺骨にサングラスをかけていらっしゃいました。

 

あちらに行かれましても、粋でかっこよくいてください。

 

ご冥福を祈りつつ…合掌。

 

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