高尾 弘先生(平成19年3月退職)

弘の43年

高尾 弘

 

 東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)に中央大学杉並高等学校に入職いたしました。弱冠22歳、体重52kg、大学(東京理科大学理学部数学科)でたてのほやほや、痩せていましたけど、張り切っていました。

 

当時の中大杉並は創立2年目、現役生徒は1年生と2年生だけ、3年生はいません。入職1年目の私はいきなり1年生の担任になりました。1年B組、50名をこえる男子生徒の担任です。彼らも入学したての15歳、記念すべき出会いでした。2年目は3年F組(男子54名、女子3名)の担任です。

 

この方たちは第1回目の卒業生、いわゆる1期生です。やたら長い(10日以上)北海道への修学旅行に行きました。3年目は3年D組、2期生です。ここには62名(男子52名、女子10名)の生徒が在籍していました。おそらく中大杉並歴代1位の学級在籍生徒数でしょう。

 

当時、中央大学への内部進学には中央大学が作成する内部試験がありました。高校における内申書と内部試験の2本立てです。学校の勉強に加えて内部試験の受験勉強もしなければならない。生徒諸君も私達教員も必死でした。

 

私にとってこの3年間は、部活(卓球部、水泳部)の顧問も含めて夢中になって過ごした時でした。5年目(1968年)からの4年間は6期生との3年間と7期(3年E組)の担任でした。このころには私もやや落ち着いてきまして、生徒諸君の顔をはっきり見ることができるようになり、授業にも余裕あるいは色艶がでてきた頃と思っています。また水泳部の顧問としてデッキブラシを手に、プールサイドで選手を応援していました。

 

10年目(1973年)にしてはじめて女子だけのクラスの担任になりました。11期、1年3組です。時に私は31歳、生徒とは微妙な年齢差です。それはともかく、毎日を楽しくすごしました。3年間連続して担任しましたのは、11期生以降、15期、20期、25期、30期、35期の皆さんで、他に39期生は1年2組だけ、41期生は3年9組だけの担任をしました。

 

43年間の在任中、担任27回、うち3年生の担任は11回でした。校内での業務の他に、20年以上外部での教育研究活動をしました。主に日本私学教育研究所の数学教育委員として、毎年個人での研究発表や他との共同研究発表をしてまいりました。

 

また、4年に1度開催されるICME(数学教育国際会議)に4回参加し、そのうちICME-9(日本・東京)とICME-10(デンマーク・コペンハーゲン)ではプレゼンテーションをし、Hiroshi Takao (Chuo University Suginami High School Tokyo Japan)の名で、中大杉並の数学教育の一端を日本のそれとして世界に発信しました。

 

苦労も多かったこの2度の国際会議での発表は、自分にとって良い思い出であり、大きな財産になりました。特にICME-10での様子は杉朋会会誌13号で大きく取り上げていただいたばかりかパネルにもしていただき、ありがとうございました。

 

また、2007年2月24日には高尾の退職記念最終授業「私の愛した数式」を行いましたが、多くの卒業生の方々にご参加頂きありがとうございました。あの日のことも私の大事な思い出になると思っています。

 

あの日登場しました「高尾の点」にちなんで「高尾の会」が2007年4月に発会しました。この会を通じて皆さんと再会できることを楽しみにしております。

 

なお「高尾の会」の代表幹事をして下さるのは6期生の木場正博さんです。改めまして、杉朋会にはこれからもお世話になります。よろしくお願いいたします。

 

 

「高尾先生に感謝!」

中央大学杉並高等学校数学科 谷内田一郎

 

 

 大学院の修士課程を修了する春まで、あと半年余りという頃、2つの就職先のどちらを選ぼうか贅沢にも迷っていた私に電話があった。「もしもし、一郎君、中杉の教員採用試験を受けてみないか?」高尾先生からである。突然の話ではあったが、10代の子供たちの成長に関わることができる職業は、おもしろそうだと思い、快諾、受験・そして朗報。思ってもみなかった進路変更となる。

 
 4月、始業式において新任教員として紹介された私は、深大寺の神代植物公園に連れていかれ、「俺は、中杉の職場では一匹狼でやっている。お前はどうする?」と予期せぬ鋭い突っ込みを受ける。これまた高尾先生であった。「日和らずにやっていきたい」という主旨を告げたことを今でも覚えている。これが高尾先生と私の同じ職場における先輩・後輩関係の始まりとなる。

 
 以来24年間、高尾先生は私にいろいろな背中を先輩として魅せてくださった。たとえば、小学生の私が中央大学の職員である伊藤晃氏の指導を受けていた頃、中杉のプールサイドで「若大将」の石原裕次郎と見紛う装いと風貌で中杉生と談笑する先生がいらした。かつての高尾先生である。

 

ところが、私が就職した頃からは、次第にスーツと上品な鞄の似合う男に変化されただけでなく、数学教育の研究に熱心に取り組まれ、日本の高校数学のリーダーの一人にならんとする勢いで様々な活動を展開されるようになっていったのである。

 

具体的には、早稲田高等学院を始めとする近隣の高校の数学教員と数学教育研究会を発足したり、関数グラフソフト『GRAPES』に関して東京理科大学を含む各種研究会での発表、日本の数学教科書や問題集の編纂・校正活動への参加、ICME(数学教育世界会議)への参加・発表・交流、校内では杉並高校用の「確率」の教科書を作成(私も参加させていただいた。)等々と、枚挙に暇がない程の活動であった。

 

特にICMEに参加するため、その研究成果のまとめに加えて、英会話能力のブラッシュアップに集中されていたときは、数学研究室内の高尾先生を取り巻く空間には、いつも英会話文が漂っているような(いわゆる高尾先生が数式以上に英語漬け状態になっておられるのではないかという)錯覚にとらわれることが何度もあったのである。
(※ 最近は、渡仏のため、フランス語漬け! いまだ、現役バリバリ、絶好調のご様子は何よりです。)

 
 また、基本である本校の生徒対象の授業研究にも当然のことではあるが、熱心に取り組まれ、生徒を惹きつける話術の工夫を兼ねて、人知れず新宿の末廣亭に足繁く通われていたことを思い出す。(これは、やろうかなと思っても、なかなかできることではないと今でも思う。)

 
 人間、年を重ねると、易きに流れて、築き上げてきた自己の殻を後生大事にしたり固執したりしやすいものであるが、高尾先生はそのときそのときの自分自身の「旬」に「素直」であり、時に変化が必要であると感じたときは、躊躇せず自分の殻を壊し、上述のように次の一歩を踏み出す「勇気」を持ち合わせている。それは、人によっては「わがまま」に見えるだろうし、方向をちょいと誤れば大変なトラブルを招きやすい。しかし、「従順」ではなく「素直」な生き様、何度も土台から築き上げようとする「勇気」と「根性」を体現する高尾先生の背中はとにかく「きわどくかっこいい」のだ。だから、どんなに羽目をはずしても、下に落ちず、上品で繊細な感覚を維持している高尾先生は、杉並高校教諭の先輩として私の誇りなのである。

 
 高尾先生がご退任されるまでのこの4年間、私が教頭職に取り組み、80%程度全うできたのは、後輩として、20年の間に高尾先生から学び取ってきたこの「素直」と「勇気」があったからだと信じている。これからも、何かを「築いた人」ではなく、何かに「気づいた人」として、「日和らず」に「素直」と「勇気」に磨きをかけていきたい。高尾先生、大変ありがとうございました!一緒に働けたことを感謝します!

 

 

「きわどくかっこいい」を次に目指す者は、「シゲ」先生と「たつ」先生でしょう!ご安心ください。(笑)

 

 

2007年2月24日
高尾弘先生退職記念・最終授業 『私の愛した数式』

~高尾弘のtと僕らの曲線は…永久に不滅です~

幹事代表・木場正博(6期生)

 東京オリンピック開催を半年後に控え、日本中に活気が溢れていた昭和39年、春、4月。開校1年目の中央大学杉並高等学校の教壇に、ひとりの痩身の若者が立った。

 
 希望に燃えた青年・高尾弘が教師人生の第一歩を踏み出した43年前の春だった。
 それから42回の春が過ぎ、43回目の春が訪れようとする平成19年2月24日、恰幅は増したものの目元に痩身の若者の面影を残し、高尾弘は中央大学杉並高等学校の視聴覚室の教壇に立っていた。

 
 “高尾弘先生退職記念 最終授業『私の愛した数式』”の日である。
 午後2時10分、イントロのオープニング映像がスクリーンに映り出される。校門横の桜のアップ、『さくら~独唱』をBGMに教師・高尾弘を語る高尾先生、若き日の写真、授業風景、1コマ1コマが34年間の教師人生を回想する…そして映像フェードアウト、同時に響く始業のチャイム。

 
 いまや“日本で五本の指に入る”と称えられる高尾弘の数学の授業、その最終授業が、いよいよ始まった。

 
 かつての教え子が打つ満場の拍手の中、壇上に上がる高尾弘。

 
 その顔には、教師生活43年間を物語る“高尾先生の笑顔”が浮かんでいた。

 
 そして…そこから先はプロフェッサー高尾の、ターちゃんの、弘の…世界。

 
 ユーモアを散りばめ、ギャグを織り込み、パソコンを駆使し、教壇を隅から隅まで動き回り、我等が高尾弘は、それぞれの卒業生が、それぞれ中杉生だったときの高尾先生を再現してくれた。

 
 2004年デンマークでの第10回数学国際会議(ICME-10)における発表内容の紹介の始まり、二次関数、三次関数、四次関数グラフ、軌跡サイクロイドにアステロイド、教師・高尾弘が愛した数式へとテンポ良く展開される。

 
 正直言って一般卒業生にとってはアカデミックな内容だった。にもかかわらず、誰ひとり居眠りをする事もなく、高尾節の中でひたすら熱心に授業に没頭した。

 
 今だから明かす。 最終授業の案内文にも記した“日本で五本の指に入る数学の授業”という形容は高尾先生が自らおっしゃったのだが、本当はその頭に“寝かさないことにおいて”という言葉が付いており、それを省略、アレンジしたのだ。が、どちらにしても、高尾先生の授業が日本で五本の指に入ることを、最終授業が実証してくれた。

 
 参考までに教師・高尾弘が 最も愛した数式は、 
r=   ta  
1+tcosθ

 
  若干の解説をするなら、この数式は、tの値の変動により放物線、楕円、双曲線の三つの曲線に変化する(のだそうだ)。

 
 先生曰く、「この数式のtは高尾のt、臨機応変、高尾のt」。
だとするならば、そこから生まれる曲線は、僕ら生徒が描いた高校生活の軌跡だ。

 

 例えば高校現役当時の授業で「私の放物線、試してみる」と言う名短文を残した41期生の女子、例えば「高尾先生を目標に数学の教師を目指す」と言う作文を高校最後のテストで書き残した現中大数学科の学生、そしてエンディングで万感の想いを胸に“涙の『仰げば尊し』”を歌ってくれた参加者の皆さん。それぞれが、自分が軌跡を残していることに気付かず、自分がどんな曲線を描いているかも分からず、それぞれに描いた高校時代の軌跡。 

 
 後で振り返れば、大きな放物線だったり、結構小さな楕円だったり、華麗な双曲線だったり…自分なりの曲線が思い出という名で残っている。そして、その曲線を描かせてくれたのが高尾のtであり、中杉の先生方=teacherのtだったということに気付くのだ。
 つくづく思う。山崎省次先生の最終授業のときにも感じたことだが、 ―――『仰げば尊し』である。

 
 これから先も、中央大学杉並高等学校という学び舎のなかで、tと曲線の関係は永久に続いていく。

 

〈あとがき〉発起人代表としてご助力いただきました一期・矢田岳さん(杉朋会会長)、幹事最年長でリードしてくださった一期・内藤統祥さん、たくさんの同期の方に声を掛けてくださった35期・渡辺千尋さん、久保知恵さん、田中玲さん、謝恩パーティーをMCで盛り上げてくださった13期・田中(小島)優子さん、二次会を仕切ってくれた20期・野中耕さん、菅谷公彦さん、『仰げば尊し』で盛り上げてくれた41期の皆さん。そして、お名前が書ききれませんが、ご尽力いただいた各期発起人および幹事の皆さん、本当にありがとうございました。

 
 “高尾先生の下、今後もみんなで曲線を描いていきましょう!”という趣旨で、高尾先生最終授業の発起人の皆様を中心に、高尾先生を囲む会『高尾の会』を結成いたします。  この会を杉朋会に登録し、公認のOB・OG会としたいと思います。  基本的には、年一回の先生との懇親会を最終授業が開催された2月24日前後に、現在も行なわれている

 

 

~併せて“高尾の会”発足のお知らせ~

 

 

 “高尾先生の下、今後もみんなで曲線を描いていきましょう!”という趣旨で、高尾先生最終授業の発起人の皆様を中心に、高尾先生を囲む会『高尾の会』を結成いたします。
 この会を杉朋会に登録し、公認のOB・OG会としたいと思います。

 
 基本的には、年一回の先生との懇親会を最終授業が開催された2月24日前後に、現在も行なわれている『高尾杯ゴルフコンペ』を初夏に、それぞれ公式行事として開催する予定です。代表幹事は、6期・木場正博が務めさせていただきます。
 参加資格は、中大杉並の卒業生で冒頭の趣旨にご賛同いただける方ならどなたでも可。

 
 お申込は、
〔0224高尾プロジェクト=eメールtakao070224@gmail.com〕まで。
 なお、すでに最終授業当日、会場で行いました会設立アンケートに賛同を頂きました皆様はそのまま会員として登録させていただきます。

 
 では、みなさまのご参加をお待ちしております。