山崎省次先生(平成14年3月退職)
忘れられない授業そして生徒たち
山崎省次(平成14年3月退職)
地域で「源氏物語」の講筵を開いて、はや十九年になる。33帖の「ふじの裏葉」を読み終えて、いよいよ佳境の「若菜」の巻に入る。うれしい限りである。この社会人対象の講読はもちろん中杉での古文の授業の延長線上にあることは言うまでもない。
源氏物語研究の泰斗山岸徳平先生の指導のもとで卒論、修論を書いた与儀先生をはじめとする国語科の先生方に相談して、中杉の三年次の古文の授業はすべて「源氏物語」をやることに決めたのは6期生のときだった。当初は講義中心の授業であったが11期生のときから私は半分を演習形式にした。
演習は班単位の発表で、近代の学者の註釈書6冊をベースに、「河海抄」をはじめとする古註、さらには池田亀鑑の「源氏物語大成」まで使って本文の異同にも触れさせた。受講者の質問もかなり突っ込んだもので、大学の演習並みであった。ある生徒などは「若紫」の演習で光源氏が十八歳の折に病気の加持祈祷に行った「北山のなにがし寺」の諸説を検討するために、京都まで調査に赴いたという。
最後に提出する班のまとめのレポートも各班とも実に美しい表紙をつけたかなりの枚数の立派なものであった。内容もさることながら美々しい装丁のみごとさに、34期生の何班かのものを写真に撮って卒業アルバムの一頁を飾った。私の授業の影響のせいか、大学で「源氏物語」を卒論に選んだ生徒が3名いる。29期生の佐藤亜也子さんと30期生の大泊幸子さんである。34期生の関麗子さんは今、悪戦苦闘の最中である。
論文といえば忘れられない生徒が2人いる。1人は1年次の現代文の授業ですぐれた啄木論を150枚も書いた10期生の江間順子さんである。もう1人は2年次で「こころ」論を書いた17期生の永目千恵子さんである。私の提示した20本以上の「こころ」の論文をきちんと読みこなし、自分なりの論を展開した卓逸なるもので、大学の卒論としても恥ずかしくないものであった。漱石の演習では22期性の萱間友道君の質問も鋭いものがあった。
中杉の3年次の自由選択授業は実にたのしかった。何せ自分の得意の教材で授業ができるのだからうれしい。私の専門の近世文学の演習は特に思いで深い。23期は西鶴の「好色五人女」を読んだ。女子の受講者が多く、彼女たちが遊女や遊郭のことなどを熱心に調べているのを図書館の人が奇異な目で見ていたと言う。長沼扶佐子さんや葛岡典子さんの勉強姿が眼に浮かぶ。近世文学と言えば15期生は芭蕉の初期の句をかなり綿密に読んだ。16名という少人数であったが、捧剛君、由良哲次君、八木貴子さんなどの優秀な生徒が多かった。その中で山岸竜生君は大学、大学院と引き続いて近世俳諧研究に打ち込んだ。芭蕉研究家の碩学今栄蔵教授門下の逸材として研究に励んでいたが、懇請して中杉にきて貰った。山岸先生は今や中杉の国語科の重鎮であるのみならず、中杉教員の枢軸たる存在である。
中杉38年の教員生活で忘れられない生徒は限りない程いる。しかし只一人を挙げよといえば19期生の小寺泰二君をおいて他にない。小寺君は3年間私が担任で、主席で中杉を卒業して法学部に行った。中大卒業後、仏教関係の大学に入学して学芸員の資格を取り、やがて京都府庁に就職した。京都府が与謝野鉄幹・晶子の終生の経済的、精神的援助者だった小林天眠より鉄幹・晶子の一万八千点に及ぶ資料を寄贈されて、その中から精選して平成5年に鉄幹・晶子展を開催した。
そのときこの任に当った小寺君より招待されて、私は京都に行った。その夜、高野川のふもとの割烹で、彼が高校時代に私の授業で暗記させられた李白の「春夜桃李の園に宴するの序」の詩賦を掛け軸に仕立て、それを飾して夜を徹して酌み交わした日のことは忘れられない。またこの2月の私の最終授業に京都から駆けつけてくれるときにくれた手紙が素晴らしい。それを38期生に読んで聞かせたらいたく感動してくれた。紙幅の関係で具体的に語れないのが残念であるが、とにかく教員冥利に尽きる。すばらしい38年間であった。