鹿島真知子先生(平成18年3月退職)

中央大学杉並高校に感謝!

鹿島真知子

  

 1974年の雪の日、第一代校長の鈴木俊先生をお訪ねし、杉並高校の採用が決まった。当時の杉並高校は木造3階建で校舎の床にはアスファルトが塗られていてかなりひどい建物であった。その3月に前任校を退職し結婚をしての就職であったから、すべてが新しく新鮮なスタートであった。まもなく、妊娠したことがわかったが、女性でも仕事を続けるのは当然のことと考えていたので私の中には何一つ心配する気持ちは起こらなかった。後でわかったことだが、結婚したら女性は仕事をやめるとか、子供ができたら仕事は続けないという風潮は一般的であり、杉並高校もしかりであったようだ。

 
 初めて担当した、7期生の男子たちは一クラスが60人余いて彼らを集中させることが難しかった。生徒たちは私の身体的変化に対して「先生、椅子に座って授業しろよ」と大人以上にやさしく労わりのある態度を示してくれた。また、12月末日に生まれた第2子のときもまだ十分産休の制度がなかった時代で12月終業式まで勤務したのだが、どの生徒たちの姿勢は変わらずやさしく、担任をしていた9期の女子は朝会に行くと週番がすでに出欠を取り終っているし遅刻も欠席も大変少なく、本当によく協力してくれた。子どもでも相手の立場を考えることができるのだという思いを強く感じ、私も誠意をもって接し、生徒にとってよき相談相手になろうと決心するにいたった。 

 
 生徒たちが手を差し伸べてくれたのと同じように助けてくれたのは学校の中で働く事務室の人々、保健室、用務の人、生協の売店、食堂の人たちで私のことや学校のことをよく見ていて、体調の悪いときに声をかけてくれたり、生徒の教室で見ることができない面を教えてくれたりしたものだ。もちろん同僚たちは教科についての知識や生徒の問題など時々に相談にのってくれ解決の糸口を作ってくれた。

 
 卒業時に担任した8期・13期・15期・20期・26期・30期・35期・41期、一年間だけの担任、一学期間だけの担任、授業で担当した数々の生徒たちのその当時の姿が浮かんでくるとそれはいつも順調でなかったときや生徒が問題を起こした時のことであった。その解決がわからず同僚に助けを求めたり、生徒の気持ちを理解する方法を求めて上智大学のカウンセリング研究所等に通ったりしてきた。

 
 あらためて私が生徒たちに伝えたかったことは何だったかを考えてみると、ある人の人生はその人のものであるということ、人は一人一人受け止め方が異なること、自分と違う人の存在を気づくことであった。そして、自分を大切にすることは他人を大切にすることである。これからも私は、言葉や態度でコミュニケーションをとり相手を理解しようとする気持ちを持ちたいと思っている。

 
 私が考えるように生徒が行動し、一般的にいわれる良い生徒ばかりであったら、私の成長はとまり自己満足で終わってしまう教師になっただろう。

 
 3月末に杉並高校と別れて思い起こしてみると約37年という長い年月、私の生活の半分以上を杉並高校で過ごしたことになる。

 
 その時代時代の生徒たちとともに成長させてくれた杉並高校に感謝する思いでいっぱいである。      

 
 中央大学杉並高等学校に栄光あれ!

 

 

鹿島先生、お元気ですか

地歴公民科 高橋 政安

 

長年、私は教科では一番若い教員として勤務してきました。それが理由ではないのですが研究室には一番乗りの日々でした。毎朝、社会科研究室で仕事?をしているとやがて鹿島先生が出勤してきます。「おはようございます」の挨拶をかわすやいなや先生は「ごめん、ちょっと本やノートを移動して」と言って大机(研究室に入るとすぐの所にある教科の共有物としての机)の上を手際よく拭き掃除をします。ここから私の一日が始まります。

 

週六日制の時代では授業のないあき時間が先生と重なることも多く、先生から授業のあり方や生徒指導などについていろいろとアドバイスを受けることができ、たいへん助かりました。放課後にもずいぶんとお話を聞くことができました。いまさらですが感謝しています。

 

そして時は移り、中杉は、男女別学から共学へ六日制から五日制へ社会科研究室は地理歴史科・公民科研究室へと変わっていきました。しかし、先生との朝のやりとりから始まる日々は変わる事はありませんでした。ただ、先生は忙しい毎日の中で研究授業の実施、校外学習の生徒引率、毎週のカウンセリング講座受講など精力的に活動をしていました。また、よき相談相手として生徒から慕われ前よりも一層、たくさんの生徒に囲まれて先生の周りはいつも賑やかでした。ですから全部が以前と同じ訳ではなかったですね。その姿に私は、羨ましさを感じることもたびたびありました。

 

その先生にある日突然、「私、退職する。」と研究室で告げられたときは、人、それぞれ事情があるのだと思いながらも、やはり衝撃を受けました。それから、しばし困惑の期間を経て今、私は教科で最年長者になっています。先生から学んだ様々な事は、私にとって非常に貴重なものであります。これからの教員生活で生かしていきたいと思います。

 

鹿島先生、長い間、気を使ってあれこれと考える場面が多かったと思います。これからはゆっくり休息をとってほしいと思います。でも先生のことだからきっとこれまでやりたかった事をしようと休む暇がないのではと思っています。無理はいけませんよ。どうぞお元気でいてください。本当にありがとうございました。

 

あっ、それから研究室の大机の上は、先生の予想どおり書籍や印刷物で芸術的な状態になっています。ではありますが地歴公民科の先生方は、そんなことを気にせずにみんなたくましく元気に頑張っています。鹿島先生、中杉の様子(特に研究室)も時々みにきてくださいね。それではまたお会いする日を楽しみにしています。