浅野達雄先生 (平成16年3月退職)

「孫が入学しました」という記事が載るのを楽しみに

元英語科教諭   浅野 達雄

 

 考えてみれば、三十五年前の中央大学英文学研究室で、紅茶を飲みながら懇談している時のことでした。瀬尾裕先生から「中大杉並高校から非常勤講師を寄越してくれという依頼がきとる。キミ、行ってこいや」と言われ、野崎孝先生からは「金を貰って教える立場だからな。下調べをしっかりやり給えよ」と恒例の厳しい忠告を受け、朱牟田夏雄先生にまで、(きっと、ご心配だったのでしょう)「これ、少しは参考になると思う。あげるから使いなさい」と、今でも大事に保管している分厚い新品の語法辞典を頂きました。 そんな偶然から、初めて見た時は「なんじゃ、これは」と驚いたオンボロ木造校舎で、初代校長の鈴木先生と教頭の田中先生に面接を受けました。恐ろしいことに、その時にはもう担当の時間割が決まっていました・・・。

 

先日、退職後の荷物を片付けていますと、当時作成したガリ版刷りのテストや練習問題のプリントが出てきましたが、今から見ると冷や汗ものの副教材ばかり・・・八期生男子、九期生女子の諸君、改めて小生の三年間に渡る「長い教育実習」に御協力いただいて有難う御座いました。また、ほぼ同時に勤務させていただいた、当時は「本物の定時制」で就業生徒の多かった中大高校の皆様にも、この紙面をお借りして、懐かしい思い出と共にお礼を申し上げます。

 
 その後、ご縁があり都内の千代田女学園高校の専任教諭となりました。すでに百年近い伝統ある学校で、英語科の男性教員は最年少の小生一人。ハーレムというより、奴隷の身分でした。元来が呑気で世間知らずゆえ、週に一、二度は校長・副校長室に呼ばれ、お叱りをまじえながら「教職」というものの基本を厳しく諭されました。今で言えば厳しい「初任者研修」を受けたようなものですが、後から考えてみると本当に有難い「叱咤激励」でした。そのまま一生勤務するつもりでおりましたので、中大杉並から専任のお話をいただいた時は正直、本当に迷いました。その折に「自分の卒業した母校の系列の学校で教えることは、ある種の名誉ですよ」と送り出して下さった前任校の管理職・同僚の暖かい励ましには今でも頭が下がります。

 
  中大杉並での二十九年間の専任教員生活は、その初年度から「なんと、イキの良い職場であろうか」の一言で、その印象が最後の年度まで続いた感があります。まだ、やっと五十年を迎える学校です。良くも悪くもその「活気」が無くならぬ様、そしてそこから「伝統」が生まれてくることを信じています。やがてはこの同窓会便りの中に「こんど孫がお世話になることになりました」・「嬉しいことに、ひ孫が入学しました」というような記事 が載るのを楽しみにしています。

 
  それにつけても二十九年間の内、二十五年間が「生活指導係」だったのはどういう因縁でしょう?旧友からも前任校の方々からも「浅野君が生活指導?」と疑問の声と笑いがあがります。その面では「師匠」であった堀口興副校長と中野幸一先生を「ご苦労様でした」と来年度お見送りしてからと思っておりましたが、体調等の面からこの三月にお先に失礼をする事になりました。最後には入院騒ぎで、「立つ鳥跡を濁さず」どころか大迷惑をお掛けしてしまいました。そんな訳で、誠に会わせる顔も無く、同窓生の諸君にも不義理を尽くしました事をこの紙面をお借りしてお詫び申し上げます。幸いに退院後の体調は良好。何よりも朝飯、昼飯の美味いこと。体重と体型は諸君の在学中と少しも変わりませんが。

 
  退職後、まだ三ヶ月。すでに故人となられた冒頭に紹介した三先生から「不惑を過ぎたら読み直しなさい」と言われた書物を、遅ればせながら、老眼鏡をかけ赤鉛筆を片手に読んでいるのが、学生気分に帰ったようで楽しくて仕方がない今日この頃です。

 

 

Memories of Mr. Asano

吉川 伸一郎

 浅野先生と初めてお会いしたのは、私が本校の教員採用試験を受験したときのことでした。筆記試験の監督をしていらっしゃった浅野先生には、非常に紳士的な第一印象を持ちました。

 
 その後その第一印象は現在まで裏切られたことはありません。自分の意見を主張するときはする、他人の意見を尊重するときは尊重するといったように、いわば何事もバランスを考えつつ行動なさっていたように思います。1年という短い時間ではありましたが外国語科・生徒部とたくさんの接点を持たせていただき、その中で、授業等英語に関することはもちろんのこと、高校教師としての姿勢や態度、生徒との接し方など、様々なことをまだ新任間もない私に親切に教えてくださいました。

 
 渋谷に一斉校外補導に一緒に参加させていただいた際、おいしいラーメン屋さんを教えていただいたこと、渋谷の町を歩き回ったこと、その帰りに高田馬場で飲みながら中杉の将来を語りあったことなど、非常に懐かしく思います。

 
 あの当時はこれからずっと浅野先生と共に明るい中杉を築き上げていくんだと当然のように考えておりましたので、実際今でも浅野先生がご退官なさったことがなんだか夢のように思えます。今後も中杉のわれわれ後輩に、客観的視点から、いろいろアドバイスをいただければと願っています。

 

 

前野 桃子

 浅野先生といえば・・・という話をし始めると、みなが物まねをし始めた。独特の手の動き、よくおっしゃっていた台詞・・・でも、ふと「本物」の浅野先生を中杉で拝見することはもうできないのだなと思い、寂しくなった。

 
 「たきさん」「よっちゃん」「大兄」「姫」「殿」「大奥」などユーモラスなあだ名で同じ科のメンバーを呼び、生徒が「宿題を忘れた」と言ってくると「おぬし、わしに喧嘩を売っているのか」と諭し、お辞めになる時の引継ぎ資料には大きく「遺言」というタイトルがついている(受け取った教員はのけぞった)・・・普通ではちょっと考えられないような言動でも、浅野先生がなさると「中杉」の風景に自然になじんでいたと思う。

 
  今でも外国語科研究室のドアを開けると、椅子に正座をして座っている浅野先生がいらっしゃるような気がします。今まで本当にありがとうございました。これからも、中杉を、外国語科を温かく見守ってください。