石川和明先生(平成19年3月退職)

物理と考古学

石川和明

 

 昭和42年に中央大学杉並高等学校に奉職し40年間、平成7年3月をもって無事に退職することができました。

 
 これはひとえに教職員の皆様をはじめとし、日頃から接してきた生徒、後援会の方々、さらには中杉をバックアップし、各種の行事を盛り上げていただいた杉朋会のお陰であったと大変感謝しております。この間に教育課程は何度も改訂されましたが、その度に中杉の特色を失わないような配慮がなされ、一定の成果を上げ多くの卒業生が育っていきました。同窓会に出席させていただき、第一線で活躍する卒業生とお話をする機会を得るにつけて中杉での学校生活が、その後の人生にプラスに作用したのではないかと思う次第です。

 
 表題の物理と考古学について一寸お話をさせていただきたいと思います。

 
 私は中学時代に調布市に住んでいましたが、近くに現在は国指定遺跡になっている下布田遺跡があった関係から土器や石器の収集に凝っていました。高校進学では考古学部のあった都立三鷹高校に進学し、3年間勉強をおろそかにしながら部活動に没頭していました。

 

大学進学の時期になり、将来の進路を考えたときに考古学では食べていけないと判断してしまい、理数系の科目が好きだったことから中央大学の物理学科に入学しました。

 

しかし、考古学は捨てがたく、物理と考古学の学際領域について関心が移り、放射性炭素による年代測定、古地磁気、土器の中に混入した微化石などに手を染めました。大学4年の卒論は「古墳時代の土器の破片について」(中大理工学紀要 第13巻)でした。

 

3年から教職課程を履修し、幸運にも中杉に就職できました。中杉で教鞭を執りながら、ほそぼそと考古学に関心を持ち続けてきました。この間に今年の6月に国指定遺跡に登録された深大寺城跡の調査、昭和45年には宮本常一の指導のもとに行なわれた神奈川県の霧が丘遺跡では縄文早期の鹿や猪を捕獲するための多数の落とし穴を調査し、以後この種の遺構が落とし穴であることが周知されました。同じく神奈川県の古墳前期の全長54mの前方後方墳の東野台2号墳の調査、東海地方の弥生時代の標式遺跡である白岩遺跡では、国宝、伝讃岐国出土の袈裟襷文銅鐸に描かれた糸を紡ぐ人が持つ工字型の木器、(かせ)を発見しました。このは今のところ日本で唯一の完形品です。その他に清瀬市の西原遺跡、下宿内山遺跡調査などに直接携わることができました。現在はあきる野市の原小宮遺跡調査に携わっています。

 
 物理教科書の中には放射性元素の半減期、地磁気の単元などがあり、折りに触れてこれらの調査経験と共に理系と文系の学際領域の話をしてきました。

 
 今後は今まで手懸けてきた調査の報告書が未刊の遺跡が幾つかありますので数年間は報告書作成に取り組んでいきたいと思っています。 

 
 中杉の将来についてはこれまでも度々検討され、その成果は校舎改築、現校舎の建築などが行なわれ、教育環境の整備が次第に整ってきています。一方、法人側も中高一貫教育を視野にいれた計画を俎上に上げています。附属高校では中学設置が進行中です。近い将来には中杉でもこの問題が現実化すると予察されますが、中杉が一丸となって適切な対応と選択がなされ、益々中央大学杉並高等学校が発展すると信じています。

 

 5年後には中央大学杉並高等学校50周年祈念式典が催される予定になっています。杉朋会の皆様の絶大なご支援を宜しくお願い致します。

 

 

石川先生の思い出

山崎 尊

 

 石川先生が中央大学杉並高校に奉職されたのは昭和42年、今をさかのぼること41年前のことです。昭和42年といえば5期生が入学された年であり、教え子の中には作家の浅田次郎さん(岩戸康次郎さん)がいらっしゃいました。浅田さんが2年生のときには石川先生が担任をお持ちになっていて、当時浅田さんが「並高エレジー」なる作品(その頃の中杉の名物先生が独特の個性をもつキャラクターとして登場するらしい)を書いて、校内でまわし読みされていた、などというエピソードを教えてくださいました。

 
 先生はその温和な表情と人柄で、教員・生徒を問わず誰もが親しみをもって接することのできる先生です。私も中杉に来た当初はさまざま戸惑うことがありましたが、いつも先生の笑顔や励ましの言葉に助けられました。奉職されてからずっと物理部の顧問をなさっていましたが、OB会等で物理部OBの方とのお話を通じてしみじみ感じるのは、卒業後何年経っても先生を慕って多くの方がお集まりになるということは、やはり先生のお人柄ゆえのことであろうということです。

 
 さて、今から8年前、私が講師として中杉の物理実験室にはじめて足を踏み入れたとき、部屋の各所に置かれている岩石やグラインダ、鉱物顕微鏡など、物理の実験室としては意外な器具が並んでいるのをみて、驚いたことを今でもよく憶えています。先生は大学在学中から考古学の研究をなさっていました。中杉に来てからも高校で物理を教える傍ら、昭和40年代は都内を中心に、横浜市や静岡県菊川町(現在は菊川市まで足を伸ばしての遺跡の発掘、50年代になってからは、三宅島、神津島、船橋市と研究のフィールドを移し、平成4年からは武蔵村山市史の編集委員として、武蔵野台地の地形・地質についてまとめるといったお仕事もなさっています。平成14年に刊行された「武蔵村山市の地形地質」においては執筆者として堀口輿先生も名を連ねております。長年にわたる先生の研究についてお聞きして、研究者としてのひたむきな姿勢とフットワークのよさに、ただ脱帽する思いです。

 
 最後の2年間は副校長という要職に就かれて非常に忙しい日々をお送りだったと思います。この時期はちょうど、昭和38年の中杉発足時の先生方の多くがお辞めになる時期と重なり、副校長という職務が従来以上に大変なものであったはずです。しかしそのような中で、3年生物理の授業の教材研究や実験準備にも労を惜しまず、一切の妥協を許さない先生を見て、先生の理科教育に対する強い思いに、感服するばかりです。

 
 また、石川先生とはスモーカー仲間でもありました。最近の喫煙者はどこに行っても肩身の狭い思いをするわけですが、談話室奥のベランダで、夏になると「今日は暑いね~」、冬になると「今朝は寒いね~」などというあいさつ代わりの言葉から始まり、校務に関することから科学の話題、はたまた先生のご家族に関することまで様々なことをお聞かせいただきました。ベランダは私にとってもう一つの学校のようなものでした。

 
 最後に、これから少しはゆったりする時間が増えることと思います。ご自身のお体をいたわっていつまでもお元気でいてください。あらためて長い間本当におつかれさまでした。