堀口 興先生(平成17年3月退職)

副校長 堀口 興

 

私もいよいよこの3月で定年を迎えます。中大杉並高校に勤めた期間は講師の2年間を含めると42年間になります。34年間は理科(地学)の教員として、最後の8年間は教頭と副校長の職まで務めさせていただきました。今になってみると、アッという間の42年間だったようにも思えます。この間、地学の教員として授業やクラブ活動を通して生徒達に自然を学ぶ面白さや楽しさを伝えられたとしたら望外の喜びです。そして、同僚の先生方、生徒諸君、保護者の皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。

 
 教員は、大学を卒業して教壇に立つとすぐに「先生」と呼ばれるようになり、生徒を教える立場になります。確かに学問の面で生徒達と比べれば「先に生まれた」だけはあり、知識や経験はあります。しかし、私は生徒達からむしろ教員としてのあり方を逆に教えられた、育てられたと思っています。

 

今から考えればあの時こう言えばよかった、こうやればよかったという失敗が沢山あります。結論を急ぐあまり自分の考えを押し付けてしまったこともありました。失敗から多くを学びました。最初の保護者会の時、会の進め方まで頭が回らずモタモタしていると『先生、保護者会はこうやるんですよ』と、あるお母さんがそっと助け舟を出してくれました。

 

クラス担任として多くの生徒を卒業させましたが、クラス担任として最初の教壇に立つとき、いつも私は「良いクラスにしよう」と生徒に呼びかけます。そのとおりに良いクラスになりました。私は生徒達にも保護者にも本当に恵まれていました。もちろんクラスには、優秀な生徒ばかりではありません。私の注意に耳を貸そうとしない生徒もいましたし、遅刻や欠席の多い生徒、処分された生徒もいました。「先生の言う事が正しいことは分かるけど、先生の思うようにならない生徒だっているんだ」と泣いて私に抗議した生徒もいました。

 

でも、そういう生徒の方が、教師としてのあり方を多く学ぶことができました。今、そんな生徒一人一人の顔が脳裏を駆け巡ります。『人は子供を生んで親になるのではなく、育てることで親になる』といわれますが、先生も同じことが言えます。教壇に立つことで先生になるのではなく、生徒と一緒に学ぶことで本当の教師「先生」として成長するのではないかと思います。

 
 昭和38年、現在の中大附属高校が残した古い校舎と名称を受け継ぎ、新しい中大杉並高校が発足しました。私達は「附属高校は鉄筋コンクリート4階建ての新校舎、中杉は木筋板クリート3階建てのボロ校舎」と揶揄しました。しかし「教育は建物で決まるのではない、中身で決まるんだ」と負け惜しみを言いましたが、実は本当にそう思っていました。

 

私達は早く中附に追いつき追い越せという意気込みで、若い先生方は団結していました。東京都の学校群制度や大学受験の難化による私立大学の付属高校評価の高まりが追い風となり、次第に中杉の評価も高くなっていきます。中杉の草創期に奉職された当時若手の先生方は燃えていました。教員としての技量の向上は、杉並高校のレベルの向上と発展とに一致していました。

 

クラス運営の方法や生徒指導・進路指導については先輩の先生からも多くを学びました。大先輩と同じようにできなくとも自分なりに工夫しました。教員室や地学準備室で仕事が残って夜遅くなっても毎日が楽しかった。地学部の生徒たちと一緒のクラブ活動も楽しかった。振り返ってみると不思議に楽しかったことばかりが思い出されます。

 
 いよいよ、この3月で私も中杉を卒業します。先生方、生徒達、OBの諸君そして御父母の方々、長い間本当にお世話になりました。有難うという感謝の気持ちで定年を迎えられることは本当にうれしいことです。

 
 近年、高校を取り巻く環境は大変厳しいものがあります。最後になりますが、中杉がこれからも良い学校として益々発展していくことを心から願っています。  

 

     
以上

 

 

堀口 興先生の思い出と略譜

副校長 石川和明
2005.5.21

 

 先生は杉並高校創立の昭和38年から教鞭を執っていました。最初の2年間は講師として以後昭和40年から今年3月に定年退職するまでの42年間に渡って大きな足跡を残しました。地学・生物の授業を通して多くの生徒に自然に対して興味、好奇心を起こさせる授業を展開していました。授業は無論のこと生徒指導にも力を注ぎ、先生の誠実な人柄と信念を持った教育方針、指導に薫陶を受け様々な方面で活躍している卒業生は数多くいます。

 
 先生が自然に興味を持ったのは都立神代高校の教員であった関東地方第4期の研究の第一人者であった羽鳥謙三氏であったと聞いています。学芸大学でもライフワークとして千葉県成田層の研究、微化石の珪藻分析と分類に没頭したということです。

 
 杉並高校でも生徒が下校後に地学準備室で夜遅くまで顕微鏡の前にいたことを思い出します。昭和53年から平成12年は日本学生科学賞を視野に据えた部活動を精力的に行っていました。善副寺池の調査に始まり、千葉県富津岬の現棲貝類の調査を継続的に実施し、この間に科学賞に応募し優秀賞、努力賞、あるいは奨励賞を毎年受賞しています。とりわけ昭和62年には全国大会で3位の最優秀賞を授与されています。

 

 先生自身の研究も進展し、千葉県成田層に関する学会発表を2回、専門とする地質、珪藻分析に係わる三編の論文が地質学雑誌に掲載されています。

 
 平成9年から平成12年までは2期4年にわたって教頭職に就き、平成13年からは2期4年にわたって副校長となり、この間にオックスフォード語学研修(1998)、中山外国語学校との協力協定(2001)、帰国生入試(2001)、一般公募入試の導入(2002)、ユニティー・カレッジとの協力協定締結(2004)に携わり、中大杉並高校の体制つくりに取り組んでいました。この時期は校務に時間を割かれ十分に部活動を指導する間がなくなりましたが、生徒を引率して富津岬でのカニ類、ニホンスナモグリ、アナジャゴなどの現棲生物の巣穴と狭山丘陵における化石として残る巣穴を比較研究してその成果を武蔵村山市の地形地質資料集(11年)と通史編・上巻(平成14年)に生痕化石と珪藻分析報告として掲載され、刊行されています。

 
   教頭、副校長になってから多忙になってしまい論文提出が遅れてしまっているので退職後は、それらの宿題を完成させたいとのことでした。

 
 堀口先生、長い間、ありがとうございました。