佐藤克典先生(平成13年11月27日ご逝去)

背中で教えてくれた佐藤先生

19期生   内田 太

 

 

佐藤克典先生私は、19期生(昭和59年3月卒)。佐藤克典先生がつくり、顧問をされていた硬式テニス部のキャプテンでした。 訃報を聞いたのがつい先日のことで、まだ気持ちが動転しており、とりとめのない文章になってしまうかもしれませんが、克典先生に一番心配をかけ、また目をかけていただいた者たちの代表として先生の思い出をここに書きたいと思います。

 
 高一の時。新入生向けに部活動紹介をしていたオリエンテーションでのこと。壇上にあがった克典先生は、テニス部にはいろうかと真剣に説明を聞いていた私に、びっくりするような一言をおっしゃられた。「高校3年間でテニスうまくなりたいなら、うちの部には来ないでください。」
  その理由は、校内にテニスコートがないため、部としては人並みの練習ができないからだという。もっとも、「大学4年とあわせた7年間で、うまくなるという考え方でいくならば、入部をおすすめする。」入部をすすめるオリエンで、顧問が出てきて「来ないでください」、なんてありかよー、と思ったのでいまでもよく憶えている。

 

 高2の時。私学戦(「私立高校だけの大会」)男子シングルスで、3つ勝って初日を勝ち残り次の日曜日も試合です、と報告に行ったときのこと。 次は4回戦で、シードの選手とあたります。と、胸を張る私に(なんせコートのない弱い部だったので、私学戦で勝ち残るのは大変なことだったのである)、克典先生は、「そうか。」とだけ、そつけないカンジ。もうすこし喜んだり、よくやったの一言あったりしてもいいのではないかなー、と私は思った。しかし、後で聞いたところによると、国語研究室の先生方の前では、とても喜んでいたらしい。(私の担任だった二人の先生はいずれも国語研究室で、克典先生と仲がよかった)

 

 高3のとき、我が硬式テニス部は不祥事をおこし(コンパ発覚)、無期限休部となった。 私たち19期の部員は、高校最後の大会に出場できなかった。 その当時、私たち部員は、自分らのことで頭がいっぱいになり、休部の決定を部員に事務的に伝える克典先生がどのような気持ちであったか、なんて考える余裕はなかった。今思えば、このとき一番悲しんでいたのは、克典先生だったのであろう。苦心してつくった部を休部にするのは、まさに断腸の思いだったにちがいない。しかし、先生は、ぐちも責めや嘆きのことばも一切私たちに言わなかった。

 

 大学生になり、コーチ役のOBとして、テニス部に参加した。夏合宿前に顔見せと打ち合わせをするため、約2年半ぶりに中杉に行き克典先生にお会いした。このとき先生は、「内田さん、どうですか、大学生活の方は。」と、私に敬語を使われたのである!在学中にはありえなかった展開に、私はびっくりした。これまた、今思えば、中杉を卒業するまでは先生と生徒の関係、卒業後は大人と大人の関係と、分けて考えていたのであろう。 これらのことは、15年から21年も前のできごとである。克典先生は、享年55才。とすると、この当時の先生は、今の私たちの年齢だったということになる。(私は在学中、先生いくつなんだろうなんて考えたことなかった。) 

 

克典先生は、20期生の担任をされていたため、私たち19期生は直接先生から国語を教わってはいない。 また、これはこうなんだからこうしなさい、とか、これこれだからこれはやってはいけない、とは言われた記憶がない。 しかし、今こうしていろいろなことを、思いおこしてみると、先生は背中でたくさんのことを教えて下さった。あの当時の先生と同じ年代になった今、先生がどのような目で私たちを見ていてくださっていたのかが、少しわかるような気がする。 あまりに早く逝ってしまわれた克典先生、天国でテニスをされているでしょうか。できることならば、先生といっしょに、ちゃんとしたコートでちゃんとしたボールで、ラリーがしたかった。心よりご冥福をお祈りいたします。