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	<title>杉朋会 - 中央大学杉並高等学校 同窓会 &#187; 佐藤　晃先生</title>
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		<title>佐藤　晃先生 (平成17年1月24日ご逝去）</title>
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		<pubDate>Sun, 23 Jan 2005 15:00:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[3. 先生方の動向]]></category>
		<category><![CDATA[佐藤　晃先生]]></category>

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		<description><![CDATA[佐藤　晃先生逝く 中央大学杉並高等学校高校元教諭の佐藤　晃先生がかねてより病気ご療養中でありまし たが、肺炎のため1月24日（月）午前２時３０分にご逝去されました。享年66歳でした。   　奥様の千代様（喪主）、ご令嬢様、ご親族の皆様にお悔やみ申し上げますと共に故人の ご冥福をお祈り申し上げます。   通夜、告別式の模様をご報告いたします。   　１月２５日（火）午後４時３０分東村山市恩多町「ベルホール」（式場）にてご親族が 見守る中、ご遺体が棺に納められました。   　同日午後６時より、本学阪口校長、堀口副校長初め、元・現教職員、中央大学関係者、卒業生、ご友人等300名以上の方々が参列されて本通夜が執り行われました。 　翌２６日（水）午前１１時より告別式が執行されました。参列者全員（100名以上）が 悲しみを堪えながらご遺体に献花し、最後のお別れのあと、１２時にご出棺されました。 　葬儀は辻博康先生が世話人となり、元・現教員、杉朋会理事・会員、ソフトテニス部 杉友会（ＯＢ会）の皆様が受付、場内誘導、交通案内等をしました。   　弔辞は本学堀口副校長がお話されました。その内容は当ホームページに掲載されています。   　先生は昭和38年本学創立とともに生物の先生として奉職され、３年生クラスは３期Ａ組、７期Ｂ組、１０期Ｃ組、２０期Ｂ組、３０期６組を担任されました。   　平成13年8月ご病気により定年を待たず退職された後は難病との闘いの日々でした。   　また、先生は本学同窓会係として１３年の永きに渡り、杉朋会組織充実のため尽力され、本会の礎を築いていただいた恩人です。   　以上取り急ぎご報告まで   平成１７年１月２７日 　 杉朋会会長　矢田　岳夫   弔 辞   大杉並高校を代表し、また、長年の友人の一人として謹んで弔辞を朗読させていただきます。佐藤晃先生は、一昨日1月24日午前2時30分、薬石の効なく永眠されました。ご家族、ご親族の皆様には心より哀悼の意を表します。   先生、長い闘病生活、本当にご苦労様でした。入院する前から難しい病気と伺っておりましたので覚悟はしていましたが、やはり貴方の訃報に接すると悲しく、辛くなります。 私と先生の始めての出会いは、中大杉並高校創立時の昭和38年3月だったと思います。駿河台の中大記念館で、初代校長の鈴木俊先生と事務長の栗原先生と一緒でした。校長から、静岡県三島市にある国立遺伝研究所の助手をしていた優秀な先生であるとの紹介がありました。以来、私達は理科の生物と地学の教員として、貴方が退職する平成13年まで38年間、職場を共にしました。   佐藤先生は、生物の教員として熱心でいわゆる熱血先生でした。授業では生徒達に分かり易くなるようにと、よくたとえ話をしました。そのたとえ話が適切で面白く、生徒達には人気の授業でした。板書事項は完全に諳んじていて、角張った独特の字で赤や黄色などの色チョークをふんだんに使って書くのが特徴でした。一方、生徒たちがノートや教科書を忘れると厳しくしかり、誤魔化したり嘘をつくと、頭の偏差値だけでなく、心の偏差値が大切だと言って諭しました。   NHK教育テレビのヒヨコを使った遺伝の番組に出演したこともあり、生物部のクラブ活動では難しい遺伝の研究を指導していました。生物部がなくなってからは、長い間ソフトテニス部の顧問をし、生徒たちと一緒にプレーをするのが常でした。近年は中杉の同窓会である[杉朋会]の顧問をしていて「これからの中杉はもっと卒業生を大切にしなければいけない」と言い、杉朋会の名簿作りや組織作りに尽力されました。今日、ご会葬いただいた中杉の教職員を始めOB・OGの皆さんは、このような先生の人柄や情熱に惹かれた人たちだと思います。   先生は小柄な身体ではありましたがスポーツは万能で、また凝り性でした。学校でスケート教室が始まると早速スケート靴を買い、ボーリングが流行ると、マイボール・マイシューズ・マイバッグまで用意しました。この話は今でも中杉の語り草となっていますが、彼がまだ若い時、学校の近くの中華料理店[喜楽]さんからラーメンと一緒に現金の出前まで頼むという豪快な面を持っていました。語りつくせないエピソードの持ち主で、皆から好かれ、愛された先生でした。貴方は間違いなく、中杉の宝で、名物先生の一人でした。 教員会議や理科部会での先生の発言はいつも公平・公正で、我を張ることはなく、生徒達のこと、学校の将来や全体のことを考えての発言でした。   私達二人は年齢が近く、同じ教科ということもあり馬が合っていました。家族のこと、子育てのこと、個人的なことをいつも本音で話し合いました。授業での失敗談やうまくいった話、教育のあり方、高校の教員とはどうあるべきかをよく議論しました。また、試験期間中になるとボールが見えなくなるまでテニスをし、それが終わるとビールや酒を酌み交わしました。今はなき国語科の与儀先生や当時若手の先生方が加わると話が面白くなりもっと盛り上りました。あの頃は忙しかったけれど毎日が楽しかった。   教員テニス同好会では、体力に物を言わせる我流タイプの堀口・山崎組とスクール育ちで華麗な正統派タイプの佐藤・山本組の対戦がよく組まれ、合宿で熱海まで行ってプレーを楽しみました。この時の因縁の熱海対決は結局、佐藤・山本組に軍配が上がりました。しかし、山崎・山本・堀口はまだ元気なので、あと何年か、何十年かして全員が天国に行ったら、今度は天国決戦をやろうじゃないか。   2年位前、貴方との会話がまだ出来る時、久しぶりに病院へお見舞いに行くと涙を流して喜んでくれました。学校の様子や生徒たちの話、同窓会やOBの話を聞くのが嬉しいらしく、うなずきながら聞いていました。帰り際に「また来るからね」と言ったら、小さな声で「堀口さんも忙しいのだから体に気をつけて」と自分のことを棚に上げて、他人のことを心配するそんな優しさを持ち合わせている先生でもありました。   中杉の教員室は、今、世代交代が行われていて、新しい優秀な先生が多くなっています。これからの中杉はこれらの先生方に任せようではないか。何の心配もありません。 佐藤先生。　　晃さん。　　貴方の人生は、少し短かったけれど立派だった。後輩達のよい手本になると思う。いろいろ心配のことや心残りのこともあるかも知れないが、お子さんも無事に成人されたし、親としての務めは立派にやり遂げたと思う。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>佐藤　晃先生逝く</h3>
<p><img class="fl-r" title="佐藤　晃先生" src="http://sanpoukai.org/wp-content/uploads/2005/01/img0024.jpg" alt="佐藤　晃先生" width="160" height="212" />中央大学杉並高等学校高校元教諭の佐藤　晃先生がかねてより病気ご療養中でありまし たが、肺炎のため1月24日（月）午前２時３０分にご逝去されました。享年66歳でした。</p>
<p> <br />
　奥様の千代様（喪主）、ご令嬢様、ご親族の皆様にお悔やみ申し上げますと共に故人の ご冥福をお祈り申し上げます。</p>
<p> </p>
<p>通夜、告別式の模様をご報告いたします。</p>
<p> <br />
　１月２５日（火）午後４時３０分東村山市恩多町「ベルホール」（式場）にてご親族が 見守る中、ご遺体が棺に納められました。</p>
<p> <br />
　同日午後６時より、本学阪口校長、堀口副校長初め、元・現教職員、中央大学関係者、卒業生、ご友人等300名以上の方々が参列されて本通夜が執り行われました。<br />
　翌２６日（水）午前１１時より告別式が執行されました。参列者全員（100名以上）が 悲しみを堪えながらご遺体に献花し、最後のお別れのあと、１２時にご出棺されました。<br />
　葬儀は辻博康先生が世話人となり、元・現教員、杉朋会理事・会員、ソフトテニス部 杉友会（ＯＢ会）の皆様が受付、場内誘導、交通案内等をしました。</p>
<p> <br />
　弔辞は本学堀口副校長がお話されました。その内容は当ホームページに掲載されています。</p>
<p> <br />
　先生は昭和38年本学創立とともに生物の先生として奉職され、３年生クラスは３期Ａ組、７期Ｂ組、１０期Ｃ組、２０期Ｂ組、３０期６組を担任されました。</p>
<p> <br />
　平成13年8月ご病気により定年を待たず退職された後は難病との闘いの日々でした。</p>
<p> </p>
<p>　また、先生は本学同窓会係として１３年の永きに渡り、杉朋会組織充実のため尽力され、本会の礎を築いていただいた恩人です。</p>
<p> <br />
　以上取り急ぎご報告まで</p>
<p style="text-align: right;"> <br />
平成１７年１月２７日</p>
<p style="text-align: right;">　<br />
杉朋会会長　矢田　岳夫</p>
<p style="text-align: left;"> </p>
<h3 style="text-align: left;">弔 辞</h3>
<p> </p>
<p>大杉並高校を代表し、また、長年の友人の一人として謹んで弔辞を朗読させていただきます。佐藤晃先生は、一昨日1月24日午前2時30分、薬石の効なく永眠されました。ご家族、ご親族の皆様には心より哀悼の意を表します。</p>
<p> <br />
先生、長い闘病生活、本当にご苦労様でした。入院する前から難しい病気と伺っておりましたので覚悟はしていましたが、やはり貴方の訃報に接すると悲しく、辛くなります。<br />
私と先生の始めての出会いは、中大杉並高校創立時の昭和38年3月だったと思います。駿河台の中大記念館で、初代校長の鈴木俊先生と事務長の栗原先生と一緒でした。校長から、静岡県三島市にある国立遺伝研究所の助手をしていた優秀な先生であるとの紹介がありました。以来、私達は理科の生物と地学の教員として、貴方が退職する平成13年まで38年間、職場を共にしました。</p>
<p> <br />
佐藤先生は、生物の教員として熱心でいわゆる熱血先生でした。授業では生徒達に分かり易くなるようにと、よくたとえ話をしました。そのたとえ話が適切で面白く、生徒達には人気の授業でした。板書事項は完全に諳んじていて、角張った独特の字で赤や黄色などの色チョークをふんだんに使って書くのが特徴でした。一方、生徒たちがノートや教科書を忘れると厳しくしかり、誤魔化したり嘘をつくと、頭の偏差値だけでなく、心の偏差値が大切だと言って諭しました。</p>
<p> <br />
NHK教育テレビのヒヨコを使った遺伝の番組に出演したこともあり、生物部のクラブ活動では難しい遺伝の研究を指導していました。生物部がなくなってからは、長い間ソフトテニス部の顧問をし、生徒たちと一緒にプレーをするのが常でした。近年は中杉の同窓会である[杉朋会]の顧問をしていて「これからの中杉はもっと卒業生を大切にしなければいけない」と言い、杉朋会の名簿作りや組織作りに尽力されました。今日、ご会葬いただいた中杉の教職員を始めOB・OGの皆さんは、このような先生の人柄や情熱に惹かれた人たちだと思います。</p>
<p> <br />
先生は小柄な身体ではありましたがスポーツは万能で、また凝り性でした。学校でスケート教室が始まると早速スケート靴を買い、ボーリングが流行ると、マイボール・マイシューズ・マイバッグまで用意しました。この話は今でも中杉の語り草となっていますが、彼がまだ若い時、学校の近くの中華料理店[喜楽]さんからラーメンと一緒に現金の出前まで頼むという豪快な面を持っていました。語りつくせないエピソードの持ち主で、皆から好かれ、愛された先生でした。貴方は間違いなく、中杉の宝で、名物先生の一人でした。<br />
教員会議や理科部会での先生の発言はいつも公平・公正で、我を張ることはなく、生徒達のこと、学校の将来や全体のことを考えての発言でした。</p>
<p> <br />
私達二人は年齢が近く、同じ教科ということもあり馬が合っていました。家族のこと、子育てのこと、個人的なことをいつも本音で話し合いました。授業での失敗談やうまくいった話、教育のあり方、高校の教員とはどうあるべきかをよく議論しました。また、試験期間中になるとボールが見えなくなるまでテニスをし、それが終わるとビールや酒を酌み交わしました。今はなき国語科の与儀先生や当時若手の先生方が加わると話が面白くなりもっと盛り上りました。あの頃は忙しかったけれど毎日が楽しかった。</p>
<p> </p>
<p>教員テニス同好会では、体力に物を言わせる我流タイプの堀口・山崎組とスクール育ちで華麗な正統派タイプの佐藤・山本組の対戦がよく組まれ、合宿で熱海まで行ってプレーを楽しみました。この時の因縁の熱海対決は結局、佐藤・山本組に軍配が上がりました。しかし、山崎・山本・堀口はまだ元気なので、あと何年か、何十年かして全員が天国に行ったら、今度は天国決戦をやろうじゃないか。</p>
<p> <br />
2年位前、貴方との会話がまだ出来る時、久しぶりに病院へお見舞いに行くと涙を流して喜んでくれました。学校の様子や生徒たちの話、同窓会やOBの話を聞くのが嬉しいらしく、うなずきながら聞いていました。帰り際に「また来るからね」と言ったら、小さな声で「堀口さんも忙しいのだから体に気をつけて」と自分のことを棚に上げて、他人のことを心配するそんな優しさを持ち合わせている先生でもありました。</p>
<p> <br />
中杉の教員室は、今、世代交代が行われていて、新しい優秀な先生が多くなっています。これからの中杉はこれらの先生方に任せようではないか。何の心配もありません。<br />
佐藤先生。　　晃さん。　　貴方の人生は、少し短かったけれど立派だった。後輩達のよい手本になると思う。いろいろ心配のことや心残りのこともあるかも知れないが、お子さんも無事に成人されたし、親としての務めは立派にやり遂げたと思う。</p>
<p> <br />
どうぞ、これからは安心して眠ってください。</p>
<p> <br />
なお、先生のご遺体は東邦大学の医学部へ献体されます。日本の難病治療の研究、医学の発展のためにという生前からの遺言です。貴方は最後の最後まで、皆のために、全体のことを考えていた人でした。　晃先生。　さようなら。</p>
<p> </p>
<p style="text-align: right;">中大杉並高校　　堀口　興<br />
平成17年1月26日(水)　告別式にて<br />
東村山市恩多町2-41-3「ベルホール」</p>
<p> </p>
<p> </p>
<h3>佐藤晃先生を偲んで</h3>
<h4>在りし日の佐藤晃先生(地元の青葉ゴルフ会に於いて)</h4>
<p>　佐藤晃先生が平成17年1月24日、享年66才でご逝去されました。ここに、生前の功績を偲び謹んでご冥福をお祈り申し上げます。</p>
<p> <br />
　先生は脊髄小脳変性症という難病に罹り、平成13年8月をもって杉並高校を退職されました。その頃は病気の影響も少なく教鞭をとれる状態でしたが、生徒に迷惑をかけては申し訳ないと決断されました。二学期の始業式で、生徒にきちんとお別れの挨拶をしての退職でした。退職後、1年ほど家族で旅行されたりしながらのんびり過ごされましたが、平成14年10月に入院されました。その後、懸命に闘病されていましたが、そのかいもなく帰らぬひととなられました。直接の死因は肺炎とのことでした。</p>
<p> </p>
<h4>生前に自身の葬儀をイメージして</h4>
<p> <br />
　入院直後、「これから先、自分の意志を伝えることができなくなるように思うので、今のうちに辻さんに伝えておく」と言われてその内容をメモしました。そのメモを覚え書きとしてまとめ、奥様を交えて本人に内容を確認しました。その覚え書きを奥様と私が二部ずつ持ち、一部は自宅に一部は常に持ち歩いていました。これはいつ如何なる場で訃報を受けても動けるようにとの配慮からでした。参考のために覚え書きの内容を記して置きます。個人情報も入っているので差しさわりのない程度にとどめます。<br />
1. 葬儀屋・・・三光商会とする。<br />
2. 僧侶・・・三光商会に依頼する。<br />
3. 葬儀の規模・・・中程度<br />
4. 弔辞・・・堀口副校長<br />
5. 告別式、出棺時の挨拶・・・実家の弟<br />
6. 献体・・・東邦大学医学部　解剖教室に登録済<br />
7. 世話人代表・・・辻<br />
8. 連絡分担　奥さん・・・実家・親戚・地元自治会・東邦大学医学部<br />
辻・・・杉並高校関係、杉朋会→○○先生、旧教職員→○○先生<br />
クラス、テニス部卒業生→○○先生、知人、友人<br />
*すべて連絡先の電話等は記入してあります。</p>
<p> <br />
　このように生前に遺言のような形で作ってあったので、通夜、告別式は佐藤さんがイメージしていたものに近い形となったものと思われます。もし佐藤先生が生きていて、祭壇を見たら腕組みして、全体をみながら辻さんOKと言ってくれたと思います。</p>
<p> <br />
葬式は密葬される方など、100人100様です。佐藤先生のように生前に自分の意志を伝えて置くことにすれば、故人の意志に沿った葬式が行える。そのことを教えてくれたように思います。</p>
<p> </p>
<p> </p>
<h4>献体について</h4>
<p> <br />
　文献によると献体とは、「医学、歯学の大学における人体解剖の教育、研究に役立てるため、自分の遺体を無条件、無報酬で提供することをいいます。また、献体の登録には配偶者、親、子、兄弟姉妹の同意が必要となります。」と書かれています。親族の反対もあったようですが、今後の医学発展のためだと懸命に説得されたと聞きます。高校教師の中で医学に一番ちかい生物教師として立派というほかありません。口では言えてもなかなか実践できるものではありません。<br />
　通夜、告別式は通常どおりに行われました。葬儀のあと、ご遺体は火葬場でなく、東邦大学に向かいました。東邦大学では解剖学習終了後、大学側で丁寧に火葬し、ご遺骨はご遺族にお返しされることになります。時期的には本年の9月頃と聞いています。</p>
<p> </p>
<p> </p>
<h4>難病「脊髄小脳変性症」について</h4>
<p> <br />
　小脳と外部の神経を連絡する神経周辺が変性し、機能しなくなるために起こる病気とのことです。小脳は体の各部が運動するとき、細かな動きの調整をする神経器官です。<br />
小脳や脳幹(脊髄の上端と脳をつなぐ部分)から脊髄にかけての神経細胞が破壊され、次第に体が思うように動かせなくなる神経難病。原因不明、治療法なし。</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p>自らの体を献体に提供するなどの真似はできませんが、死後の家族が困らないように生前に自分の意志を伝えて置くべきであることを学びました。</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p>ご冥福をお祈りしつつ・・・合掌</p>
<p> </p>
<p style="text-align: right;">中央大学杉並高校(理科・化学)<br />
辻　博康</p>
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