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- 2005年04月01日…中野幸一先生(平成17年3月退職)
- 2005年04月01日…山本季夫先生(平成17年3月退職)
中野幸一先生(平成17年3月退職)
ゆったり散歩
中野幸一
退職してから毎日が「日曜日」。
朝の涼しい時間帯、出会う人に「おはようございます」と元気に挨拶しながら、自分のペースで自分に合った運動。こんな一日のスタートも楽しいと思い、二時間半の「ゆったり散歩」を始めました。
浅川合流点から南浅川の陵南公園の桜並木まで、木や土のぬくもりに触れ、風のにおいなど心地よい空気を感じています。
振り返れば、昭和四十年四月就任以来、バスケットボール一筋。身体を使って指導していたに過ぎず、勝てない駄目なコーチの見本のようなものでした。
就任間もない頃、バスケットボール部がインターハイに出場するにはどうしたらいいのか毎日考えていました。バスケットボールが大好きな生徒が集まってはいたものの、部員の数は少なく、体格や運動能力に恵まれていたわけではありませんでした。最も大きな課題がスタミナでした。上を目指すには、四十分間という試合時間を走り通す脚力とスタミナが不可欠です。連日、徹底的に練習に励みました。部員が翌日登校しないのではないかと不安になったこともありました。普通なら相手にしてもらえないような強豪チームの中大附属高校にも、兄弟校のよしみで胸を借りました。試行錯誤の連続でしたが、最後まで望みを捨てない、団結力のあるチームヘと成長し、遂にインターハイに出場しました。
今思えば未熟な指導でしたが、生徒が一日として休むことなく、多くの困難にも負けず、自分たちで培った気力と技とで獲得した最高の勝利だったと思います。今も心の奥に強烈な印象で残っています。この体験は私にとって人生のピンチを救ってくれた大切な宝です。体育科の協力と支援、学校側の理解を得て、良い思い出ができました。感謝しております。これからも前向きに努力していくつもりです。
それでは皆様のご健康とご多幸をお祈りいたしております。
ありがとうございました。
中野先生の思い出
根本俊臣
中野幸一先生は、中杉創立、間もない初代の鈴木校長期に高校教諭の経験者として中杉の体育に新しい風を吹き込む先人として赴任されました。
着任時の本校の体育指導方針は、高校生活の中に多くの運動に触れさせる。全校生徒が何らかの運動経験を体得し、部活動では選手強化優先方針を排除し、放課後もすべての体育施設を開放し多くの生徒にスポーツの機会を与えることが教育政策であり校長先生の体育・スポーツへの考えであり、また、それが強く打ち出されていた時期でありました。
体育科教員の田村、中野、根本、藤川(中大教授)は、保健体育科の目標を中大正科体育の中核になる生徒の養成。体育行事新設によってスポーツ体験の機会を多く与える方策を立てるとともに、体育授業の充実に努めることを基本目標として、中野教諭は即座に体育補講を実施し放課後に止まらず昼休みも惜しんで指導。それに止まらず合宿にも参加させることになりました。当時の夏季合宿は合同合宿であり、その合宿に体育時間の欠席の多い者を種目選択させ参加させ、マラソン大会も3年生を招待選手の名目で同じような生徒を参加させるなど、中杉の体育への積極的な参加態度養成、体力・技術向上を目指し率先し行動に移され、中大体育の本校履修者に高い評価がされるようになり、中杉体育学校という名称がつくほどの強力充実した指導内容でありそれが生徒の誇りでもありました。
この状況は、部活でも大きな影響をあたえ、学校の方針とは裏腹に活躍する選手を多数輩出するようになり、中野先生のバスケットボール部は当然に、バレーボール部、水泳部、陸上部、テニス部、ボート部の全国大会を始め国体出場と多部にわたる活躍の基礎となる体力向上に結びつくことになりました。中野体育学校とも呼ばれる中杉体育の一時代を築かれ、今は懐かしい思い出となりました。
2005年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
山本季夫先生(平成17年3月退職)
四十年を振り返って
山本季夫
2005.4
今年の3月31日をもって、40年間勤務した中央大学杉並高校を定年退職した。
それから約3ヶ月経った現在、ようやく勤めのない生活に慣れ、朝起きてのんびりと新聞を読み、ゆっくりと朝食を楽しめる境遇となった。
ところが、最近ときどき学校の夢を見る。決まって窮地に立たされている夢だ。例えば、自分の試験が次の時間に始まるというのに、問題が出来ていなくてあせっているとか、次の時間に数学の教師でもない私が数学を教えることになっていて、生徒が教科書を出して私の授業を待ち構えている、といった光景である。「そんなバカな!」と憤然として叫んでいるうちに目がさめてほっとするのである。
私はよく“のんびり屋”だと評される。また細かい事にこだわらず、いらいらすることもなく鷹揚に見えるとも言われる。ところが私には大変神経質な面がある。例えば、試験問題は必ず数日前には準備しておくとか、成績は提出の締切日より何日か前には出しておくとかである。もし万一不測の事態でも起きた場合を考えると、おちおちしていられないからだ。だから、試験時期が近づくと、いつも何かに追われているような気持ちで過ごしてきたのだ。授業に関してはどうかというと、これも自信がない。前日のクラスでやったのと同じ内容の授業でも、次にやる時はまた下調べをしておかないと不安でしょうがないのだ。こんな気持ちが今頃夢となって現れるのだろうか。
このようなことを書くと、いかにも自信のない暗い人生を送ってきたかのように思われるかも知れないが、これは私のほんの一面であって、実際はもっと楽しく明るい教員生活だったと言える。
よく卒業生から、中杉は自由な学校だったという声を聞く。必ずしもそれほど自由だったわけではないと思うが、おそらく精神的に自由だと感じさせる雰囲気がこの学校にはあったのだろう。実は、教師にとっても中杉は自由を感じさせる学校だった。日頃の教育活動に対して、上の方からあれこれ制限されることも少なく、いいと思われることは何でも自由にやることができた。
また有難い事には、教員の研究にはおしまず応援をしてくれることだ。私も若い頃は毎年夏休みに、必ずどこかの研究会に参加したものだ。とりわけ1975年のアメリカ研修と94年のイギリス研修は、私の英語教師としての人生にとって大きな転機となった。英語を志す者にとって、一度は英語文化圏で英語を使って生活したいという夢がかなえられたのだ。夏休みをはさんで3ヶ月間アメリカで研修したことで、やっと英語教師として一人前になった気がした。さらにその後のイギリスでの研修において英語・英語文化の奥深さを体験した。これらの機会を与えてくれた中央大学と杉並高校に対し感謝の気持ちでいっぱいだ。
最後に、無事に定年を迎えられたのは、良き先輩と同僚にめぐまれたこと、そして様々な分野で活躍している同窓生と在校生諸君のおかげである。心からお礼を申し述べたい。
山本先生の思い出
菅井恵子
2005.4
山本先生と言えば、一番に颯爽とした白いショートパンツ姿でテニスをされている姿が今でも目に浮かびます。私が生徒として中杉に入った頃は、放課後といえば(空いている時間はいつでも?)先生方はクラブに邪魔にならない程度に(?)頻繁にコートに出てテニスの真剣勝負を楽しんでいらっしゃるのが当たり前の光景でした。そんな中で山本先生は、いつも女生徒の熱い応援の声を集めていらっしゃる“ダンディー”な先生でした。
私が山本先生に直接ご指導いただいたのは、なんと言ってもイギリス、オックスフォードの海外研修の引率をした時のことです。先生にとっても私にとってもオックスフォードは、それぞれに1年という長い月日を過ごした思い入れのある場所です。赤い2段バスの走るカーファックスの交差点や、不思議の国のアリスやハリーポッターがひょっこり顔を出しそうなクライストチャーチの広い庭園やダイニングホール。キャップ・アンド・ガウンに身を包んだ学生たちが流れ出てくる卒業の日のシェルドニアンシアターと書店ブラックウェルの本のにおい。どれも中杉の生徒たちに体験して欲しい、山本先生と私のオックスフォードの思い出でした。
先生は、2年遅れて引率に出た私に、どうやって生徒たちに自立心を持たせて有意義な研修を送らせるか、現地の雰囲気と英語に物怖じする生徒の背中をどう押してやれるか、本当に丁寧にアドバイスしてくださいました。イギリスを愛してやまない先生だからこそ、私たち後輩に中杉の「オックスフォード研修」を大事に育てていくようにと伝えてくださっていたのだと思います。
また、ご自身も保育園の送り迎えにご苦労された先生が、育児休暇から復帰して悪戦苦闘している私にくださった数え切れない程の有意義な実践アドバイスと、暖かい応援の言葉は今でも忘れません。どうぞこれからは奥様とお二人でゆっくりと海外を回られてください。本当にありがとうございました。
2005年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向




