「3. 先生方の動向」カテゴリの一覧
- 07年04月01日・・・ 石川和明先生(平成19年3月退職)
- 07年04月01日・・・ 高尾 弘先生(平成19年3月退職)
- 07年01月19日・・・ 訃報 本学二代目校長 安川定男先生(中央大学名誉教授)ご逝去
- 06年06月01日・・・ 鹿島真知子先生(平成18年3月退職)
- 06年05月23日・・・ 辻 博康先生(平成18年3月退職)
- 06年04月01日・・・ 根本俊臣先生(平成18年3月退職)
- 05年10月28日・・・ 堀口 興先生(平成17年3月退職)
- 05年06月30日・・・ 松村光雄先生(平成17年3月退職)
- 05年04月01日・・・ 中野幸一先生(平成17年3月退職)
- 05年04月01日・・・ 山本季夫先生(平成17年3月退職)
- 05年01月24日・・・ 佐藤 晃先生 (平成17年1月24日ご逝去)
- 04年04月01日・・・ 浅野達雄先生 (平成16年3月退職)
- 03年04月07日・・・ 岩崎友弘先生(平成15年3月退職)
- 03年04月01日・・・ 関 俊秀先生(平成15年3月15日ご逝去)
- 03年04月01日・・・ 元教頭 鈴木眞夫先生(平成15年3月退職)
- 02年04月01日・・・ 浜田丞平先生(平成14年3月退職)
- 02年04月01日・・・ 山崎省次先生(平成14年3月退職)
- 01年12月20日・・・ 佐藤克典先生(平成13年11月27日ご逝去)
岩崎友弘先生(平成15年3月退職)
いま我々が若者にできること
――現代高校生像考察――
岩 崎 友 弘 (平成15年3月退職)
昭和38年2月某日、新中大杉並高校設立のために、6人の新任教員が初会合を持った。古ぼけた木造3階建ての校舎に集まった。一部の方を除いては全くの初対面であった。
昭和37年3月末まで、旧中大杉並高校(現 中大附属高校 小金井市)が存在したのである。中大杉並高校の名称を持って小金井市に移転しようとしたが、東京都教育委員会に反対されやむを得ず「中大附属高校」という男子校の新設高校になったのである。女子校としてスタートする予定の本校が、近所の女子校に反対され共学校として再出発したのである。
教員という立場でとらえると、教員全員が教科主任であるという事である。また教員の世界には校務分掌というものが存在する。校務分掌とは授業以外の重要な各校務(一般企業の事務等に当たる)のことである。恐らく一人で三人分位の諸実務をこなしたことと推察する。
最近の高校生は男女問わず、右手には常に携帯電話を持ち歩いている。「ケータイ」が正しく、「携帯」ではない。最近の本校生について感じるまま書きたい。
一言で述べるとすれば、現代の若者は「映像文化」の申し子達である。映像とは、映画やテレビに映し出された映像のこと。その映像に、彼らは、ある時には感動し、ある時には反発する。感動、感激、感銘するときはよい結果、影響を彼らにもたらすだろう。しかしこの見方は正しくない。100%は正しくないということになる。取捨選択を間違えるととんでもないことになる。発展(成長期)途上の彼らは、経験不足、未熟さ等が成長の障害物になってしまう。その結果、取捨選択を間違えたという事になってしまう。結論として、この感銘や感動のうち70~80%は正しいと考えるのが妥当である。残りの30~20%は正しいとは限らないということになる。
ある哲学者が言った。「世の中には、絶対なるもの、完璧なるものは何一つ存在しない」と。何故か、彼は著書の中で次のように述べている。「人間が勝手に、絶対に正しい、そして完璧だとただ思い込んでいるだけである」と。
膨大な映像文化の影響下、真っただ中にいる彼ら、若者にとって今何が必要か。映像文化の坩堝の中で生きていくにはどんな手段、方法があるかということである。現代社会は情報過多の社会とみなすことができうる。映像文化に影響されない者、関心のない若者は孤立感を感じやすい傾向がある。この孤立感というものが厄介物であるのだ。この難敵の孤立感という物こそ、現代の若者、高校生を蝕んでいるのではないか。若者皆の持っている孤立感という物を、大人達が解決してやればよいのだ。しかし、若者本人が自ら解決すればベストなのだが。
この孤立感(孤立意識)という厄介物は、若者各自が皆同じ孤立感ではない。十人十色だ。しかし、人間という生き物は集団の動物である。孤立感と対峙するものは連帯感(連帯意識または集団意識)である。若者は、高校生は、この相反する二種類の意識と日夜闘っている。彼らの、若者のこの闘いに、我々大人達が力を貸さなければいけないと思う。しかし、このことは、若者の持ってる悩み、苦悩、孤立感などの問題解決にはならない、彼らに対する問題提起に過ぎないのだ。
情報過多のこの現代社会において、そのあまりにも多い情報の取捨選択をする知恵や知識を彼らに示唆することが、我々の急務である。我々大人は一丸となって、今こそ彼ら高校生に力を貸さなければいけない時であると思う。一昔前よりもはるかに人間関係の難しい社会になってしまった。
(この文章は以前書いた文章を手直しした文章である。)
岩崎先生の思い出
山 本 季 夫
岩崎友弘先生が昭和44年に英語科の兼任講師として本校に赴任された時は、東洋大学の修士課程に在学し、フォークナーの研究をされていました。学部在学中は中大で瀬尾裕教授の元で英文学を学び、また言語学にも興味を示し、ブルームフィールドの構造言語学から、チョムスキーの生成文法に至るまでかなり勉強に励んだということを、彼を推薦して下さった瀬尾先生からお聞きしました。当時英語科の選任は皆文学畑出身だったので、岩崎先生は我々の期待を一身に受けて、さっそうと現れたのでした。青森県弘前高校の出身で、自分の経験からか勉強は教わるものではなく自ら学ぶものだという信念を持っておられたようです。従って一つ一つ手を取って教えるのではなく、教師が語る一見勉強とは無関係に思われることからヒントを得て、何かを学び取るのだという教え方でした。
岩崎先生の人柄を簡単に云えば、博識、無欲、好人物と云えるでしょう。
ある時ドイツでは音楽が発達し、フランスでは絵画が発達したのはなぜだか分かるかと聞かれました。私はそんな事は考えたこともありませんでしたが、彼が言うにはドイツには美しい森が沢山あるから敵を見分けるのに耳が発達し、フランスは平野が多いから視覚が発達したのだと。またある時は、シルクロードは誰が命名したのか教えてくれたりもしました。彼の口から面白い話が次々と出てきたものです。
生徒達からは親しげに「岩さん」と呼ばれていました。よく廊下で生徒を捕まえては話しかけている姿が印象的でした。
彼が専任になって間もない頃、私にきれいなカフスボタンをくれると云う。よく聞いてみると何と奥様からのプレゼントでした。「とんでもない」とお断りしたことがありました。
無欲なことは言うまでもありません。服装や食べ物なども一切気にしません。おにぎり二コまたは菓子パン二コでお昼を済ませることもあったようです。風邪を引いたとか、体調が悪いなどという話も聞いたことがありません。学校を休んだこともめったにありません。現代の仙人とも言うべき先生でした。
2003年04月07日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
関 俊秀先生(平成15年3月15日ご逝去)
新しく変わる中杉を見守って欲しい
関 俊秀 (平成14年3月退職平成15年3月15日ご逝去)
杉朋会の正会員にしていただき、ありがとうございます。 私は東京理科大時代、数学の授業より卓球の練習の方が好きでした。同期の友人とは現在も付き合いが続いております。 私が杉並高等学校に奉職できたのは、卓球部先輩の高尾先生による所が多いと思います。入校は1期生が3年生となるのと同時でした。右も左もわからない大学卒業1年生が、すぐ2年生の担任となりました。 清水博士君がクラスをうまくまとめ?無事終われました。次年度も2年生担任。初めて卒業生を出せたのは5期生でした。
3年D組の諸君とは友人の付き合いをしております。昨年私の還暦の祝いをしてくれました。
入校当時、教員は若者が多く、毎日のように谷内田浩一先生指導の下に、荻窪で飲み多くの話を聴き、教員は一団となっていたように思います。
私は芝高等学校卒業ですが、3年生の時東京タワーを作り始めていましたので、毎日できるのを見ていました。当然TVは見たことはなかったと思います。最近この10数年間のTV、パソコン等の進歩は夢のように思います。ただ若者は、 インターネット、携帯の使用方法がわかれば良しと思っている。私はコボル、フォートランの2つの電算についての理論を日本電子専門学校で学んだが何の役にも立たなかった。杉並高校では選抜コースで電算の理論のベーシックは教えております。
学校の授業内容も本年より変わると思いますし、新しい教員も多くなり、高校創立時代の教員も減ってきました。新しい高校に変わっていきます。杉朋会の皆様、見守って下さい。
私の長男、長女も30歳、独立しています。 私は4年程前から2年間ラドーという英会話に行っていました。ここは米国系で、各国から教員が来ていましたが、グループレッスンのためか実力はありません。4月より教員全員、イングランド人のケンジントンスクールに週1回行っています。今回は1対1で教員は同じ人です。週1回でも大変です。特別の目的はありません。
最後に、酒で体調を崩し、先生方事務の方々に迷惑をおかけしました。皆様の助けがあり、杉高を退職することができました。37年間を忘れることは無いと思います。ありがとうございました。
(平成14年8月にお書きになられた文です)
関 俊秀先生とのこと
高尾 弘(数学科教諭)
とにかく痩せてましたけど、着るもの、履くものにはこだわってましたね。良く似合ってましたでしょ。おしゃれでしたよね。
昭和17年の早生まれでしたから、小泉純一郎首相と同学年です。高校違いますけど。私とは東京理科大学数学科で一緒でした。というよりも理科大の卓球部で一緒に練習した仲でした。私のほうが大学では1年上でしたので偉そうにしていましたが、実は私とも同期です。高校違いますけど。
昭和40年に中央大学杉並高校に数学科教諭として入職なさいました。私は1年前に就職していましたから、ここでも私は先輩です。思えば長いつきあいでした。中大杉並ではまさに同僚なのですが、つねに私を先輩として見てくださいまして、数多くの酒席を共にしましたが、そのような席でもことば遣い等、気をつかってもらいました。
ギタ-がお上手で、教員バンド「青い三角関数」のリーダーとして私ども音楽素人を指導して頂きながら(私もスチールギターを担当しました)、何年間かは忘れましたが、緑苑祭のステージで演奏いたしました。亡き与儀由幸先生の名司会のせいもありまして、勿論こころ優しい生徒諸君のおかげさまで、ステージは好評であったと自負しております。当時のボーカルには、安川定男第二代校長先生、高橋憲冶先生、松村光雄先生、児玉美絵子先生、太田洋三先生などがおられ、多士済済でした。
晩年体調悪くされてからも、英会話のお勉強は欠かさなかったと聞いております。また、お亡くなりになる直前にはいっさいの延命処置を自らお断りになったと聞いております。なんと潔い、男気のあることよと敬服いたしました。
お別れの日、桐ヶ谷斎場でのお骨あげの際、ご家族がご遺骨にサングラスをかけていらっしゃいました。
あちらに行かれましても、粋でかっこよくいてください。
ご冥福を祈りつつ…合掌。






2003年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
元教頭 鈴木眞夫先生(平成15年3月退職)
思い出ポロポロ ――すでに秋声――
元教頭 鈴 木 眞 夫(平成15年3月退職)
昭和39年4月、中央大学杉並高校へ講師として奉職。1期生の2年世界史を担当。翌40年専任となり、2期生の2年B組の担任となる。その後卒業生は3期生のC組、7期生のC組、11期生は1・2年は男子クラスであったが、3年生は女子で3組。16期生の2組、21期生の2組、26期生のA組、32期生の1組、36期生の8組と計8回送った。それぞれに思い出深く、球技大会・体育祭・緑苑祭と生徒と共に燃え、それぞれの学年で種目優勝をプレゼントしてくれた。中でも21期生の3年2組は、球技大会ではバレーボール、バスケットボール、ハンドボールと全種目を制覇して完全優勝。最後に優勝を決めたハンドのメンバーは全員がガチガチとなり、1点差で優勝を決めた時は虚脱状態であった。
クラブ顧問としては地歴部を受け持ち、毎年夏季合宿で各地の名所旧跡を訪ねた。特に平泉や遠野が印象深い。この間、2年だけであったが新聞部の顧問も兼任。その後、民族同好会が11期生により設立され顧問となる。日帰りの大多喜城見学。夏季合宿は飛騨高山や遠野へ行く。楽しい合宿を経験した民研も会員不足で休会。その後、23期生から漫画研究部の顧問となり、38期生の1年まで継続。その間、31期生のハンドボール同好会設立により、漫研と顧問を兼任。この同好会は、学校の施設を使用しないという条件で認められたもので、毎週水曜と土曜日に中大附属で合同練習。他校への遠征練習はきつかったが、よく堪え技術を向上させた。卒業後もよく団結している。36期生が3年の時に引き受け手がいず、急遽野球部の顧問となる。試合や練習時の怪我が多いため必ず帯同。その為、日曜・祭日一切なし、夏休みも冬休みも5日間休めただけ。しかし、成果はあがり、夏大会で36期生・37期生は4回戦に進出。特に37期生は中大附属に大逆転勝利で感激一入。38期生は1回戦でシード校に3-5で敗れたがよく善戦し、大満足。39期生の今年は打撃がよく大いに期待している。
以上、中杉39年の思い出を記してみたが楽しいことばかりで卒業生の皆様に感謝。生徒と一緒に活動するをモットーに過ごしてきたが、動きの悪くなったのを痛感。すでに秋声を聴き、退職を決意。
長い間、ありがとう。今後もよろしく。
鈴木眞夫教頭先生の退職
副校長 堀 口 興
今からちょうど40年前の昭和38年、中大杉並高校は創立された。この創立期に奉職された先生方が定年退職の時期を迎えている。その中心は昭和14年生まれの先生方だ。当時「14年組」と呼ばれ、亡くなられた国語科の与儀先生、社会科の鈴木先生、松村先生、英語科の山本先生、理科の堀口でなんと6人もいた。14年組は結婚する時期も子どもの年齢もほぼ似ていた。今からして思えば中大杉並高校が発展し現在の礎が出来上がっていく時期と、この6人が教員として成長していく時期と一致していた。何人かの先輩教員の指導のもと毎日忙しく、教員室は遅くまで電灯がついていて活気があった。それでも毎日が充実していて楽しかった。生徒と一緒に先生も青春だった。
14年組の一人である鈴木眞夫先生は、本来の定年まであと2年の余裕を残し、この3月31日をもって退職された。草創期に奉職されたベテランの先生から中堅・若手教員へのスムーズなバトンタッチを考えての勇退だ。
鈴木先生の授業は面白いと評判で、教科書には出ていない歴史の裏話に人気があった。先生の影響で文学部史学科の西洋史や東洋史専攻に進学する生徒が少なくなかった。
趣味の囲碁は5段で強かった。さすが最近では、碁を打つ姿は見ないが物事を深読みできるのは、この囲碁で培われたものであろうと推測する。
鈴木先生はこの2年間、教頭として活躍された。教頭という激務にありながら、昨年は9時間、今年は6時間「世界史」の授業をこなした。教員として現場から離れたくないという考えである。3年前から野球部の顧問という激務も引き受けていた。今年度は、初戦にシード校と当たり3対5と惜敗したが、一昨年度、昨年度と2年連続4回戦まで勝ち進み、中附を破る金星を挙げるまでに成長させた。
教頭になってからは研究日や日曜日、長期休暇も取れない状況が続いた。楽しみにしていたご家族との旅行も時々キャンセルされた。ご自身では何も言わないが身体のあちこちにガタが来ていると思われる。しかし、鈴木先生には、まだまだ中杉の発展に参画していただき、これから採用される新人の教育にも頑張ってもらいたいが残念である。
先生、長い間お疲れ様でした。これからはゆっくり静養され、好きな読書や旅行を楽しんでください。
2003年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向




