「3. 先生方の動向」カテゴリの一覧
- 2005年04月01日…山本季夫先生(平成17年3月退職)
- 2005年01月24日…佐藤 晃先生 (平成17年1月24日ご逝去)
- 2004年04月01日…浅野達雄先生 (平成16年3月退職)
- 2003年04月07日…岩崎友弘先生(平成15年3月退職)
- 2003年04月01日…関 俊秀先生(平成15年3月15日ご逝去)
- 2003年04月01日…元教頭 鈴木眞夫先生(平成15年3月退職)
- 2002年04月01日…浜田丞平先生(平成14年3月退職)
- 2002年04月01日…山崎省次先生(平成14年3月退職)
- 2001年12月20日…佐藤克典先生(平成13年11月27日ご逝去)
山本季夫先生(平成17年3月退職)
四十年を振り返って
山本季夫
2005.4
今年の3月31日をもって、40年間勤務した中央大学杉並高校を定年退職した。
それから約3ヶ月経った現在、ようやく勤めのない生活に慣れ、朝起きてのんびりと新聞を読み、ゆっくりと朝食を楽しめる境遇となった。
ところが、最近ときどき学校の夢を見る。決まって窮地に立たされている夢だ。例えば、自分の試験が次の時間に始まるというのに、問題が出来ていなくてあせっているとか、次の時間に数学の教師でもない私が数学を教えることになっていて、生徒が教科書を出して私の授業を待ち構えている、といった光景である。「そんなバカな!」と憤然として叫んでいるうちに目がさめてほっとするのである。
私はよく“のんびり屋”だと評される。また細かい事にこだわらず、いらいらすることもなく鷹揚に見えるとも言われる。ところが私には大変神経質な面がある。例えば、試験問題は必ず数日前には準備しておくとか、成績は提出の締切日より何日か前には出しておくとかである。もし万一不測の事態でも起きた場合を考えると、おちおちしていられないからだ。だから、試験時期が近づくと、いつも何かに追われているような気持ちで過ごしてきたのだ。授業に関してはどうかというと、これも自信がない。前日のクラスでやったのと同じ内容の授業でも、次にやる時はまた下調べをしておかないと不安でしょうがないのだ。こんな気持ちが今頃夢となって現れるのだろうか。
このようなことを書くと、いかにも自信のない暗い人生を送ってきたかのように思われるかも知れないが、これは私のほんの一面であって、実際はもっと楽しく明るい教員生活だったと言える。
よく卒業生から、中杉は自由な学校だったという声を聞く。必ずしもそれほど自由だったわけではないと思うが、おそらく精神的に自由だと感じさせる雰囲気がこの学校にはあったのだろう。実は、教師にとっても中杉は自由を感じさせる学校だった。日頃の教育活動に対して、上の方からあれこれ制限されることも少なく、いいと思われることは何でも自由にやることができた。
また有難い事には、教員の研究にはおしまず応援をしてくれることだ。私も若い頃は毎年夏休みに、必ずどこかの研究会に参加したものだ。とりわけ1975年のアメリカ研修と94年のイギリス研修は、私の英語教師としての人生にとって大きな転機となった。英語を志す者にとって、一度は英語文化圏で英語を使って生活したいという夢がかなえられたのだ。夏休みをはさんで3ヶ月間アメリカで研修したことで、やっと英語教師として一人前になった気がした。さらにその後のイギリスでの研修において英語・英語文化の奥深さを体験した。これらの機会を与えてくれた中央大学と杉並高校に対し感謝の気持ちでいっぱいだ。
最後に、無事に定年を迎えられたのは、良き先輩と同僚にめぐまれたこと、そして様々な分野で活躍している同窓生と在校生諸君のおかげである。心からお礼を申し述べたい。
山本先生の思い出
菅井恵子
2005.4
山本先生と言えば、一番に颯爽とした白いショートパンツ姿でテニスをされている姿が今でも目に浮かびます。私が生徒として中杉に入った頃は、放課後といえば(空いている時間はいつでも?)先生方はクラブに邪魔にならない程度に(?)頻繁にコートに出てテニスの真剣勝負を楽しんでいらっしゃるのが当たり前の光景でした。そんな中で山本先生は、いつも女生徒の熱い応援の声を集めていらっしゃる“ダンディー”な先生でした。
私が山本先生に直接ご指導いただいたのは、なんと言ってもイギリス、オックスフォードの海外研修の引率をした時のことです。先生にとっても私にとってもオックスフォードは、それぞれに1年という長い月日を過ごした思い入れのある場所です。赤い2段バスの走るカーファックスの交差点や、不思議の国のアリスやハリーポッターがひょっこり顔を出しそうなクライストチャーチの広い庭園やダイニングホール。キャップ・アンド・ガウンに身を包んだ学生たちが流れ出てくる卒業の日のシェルドニアンシアターと書店ブラックウェルの本のにおい。どれも中杉の生徒たちに体験して欲しい、山本先生と私のオックスフォードの思い出でした。
先生は、2年遅れて引率に出た私に、どうやって生徒たちに自立心を持たせて有意義な研修を送らせるか、現地の雰囲気と英語に物怖じする生徒の背中をどう押してやれるか、本当に丁寧にアドバイスしてくださいました。イギリスを愛してやまない先生だからこそ、私たち後輩に中杉の「オックスフォード研修」を大事に育てていくようにと伝えてくださっていたのだと思います。
また、ご自身も保育園の送り迎えにご苦労された先生が、育児休暇から復帰して悪戦苦闘している私にくださった数え切れない程の有意義な実践アドバイスと、暖かい応援の言葉は今でも忘れません。どうぞこれからは奥様とお二人でゆっくりと海外を回られてください。本当にありがとうございました。
2005年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
佐藤 晃先生 (平成17年1月24日ご逝去)
佐藤 晃先生逝く
中央大学杉並高等学校高校元教諭の佐藤 晃先生がかねてより病気ご療養中でありまし たが、肺炎のため1月24日(月)午前2時30分にご逝去されました。享年66歳でした。
奥様の千代様(喪主)、ご令嬢様、ご親族の皆様にお悔やみ申し上げますと共に故人の ご冥福をお祈り申し上げます。
通夜、告別式の模様をご報告いたします。
1月25日(火)午後4時30分東村山市恩多町「ベルホール」(式場)にてご親族が 見守る中、ご遺体が棺に納められました。
同日午後6時より、本学阪口校長、堀口副校長初め、元・現教職員、中央大学関係者、卒業生、ご友人等300名以上の方々が参列されて本通夜が執り行われました。
翌26日(水)午前11時より告別式が執行されました。参列者全員(100名以上)が 悲しみを堪えながらご遺体に献花し、最後のお別れのあと、12時にご出棺されました。
葬儀は辻博康先生が世話人となり、元・現教員、杉朋会理事・会員、ソフトテニス部 杉友会(OB会)の皆様が受付、場内誘導、交通案内等をしました。
弔辞は本学堀口副校長がお話されました。その内容は当ホームページに掲載されています。
先生は昭和38年本学創立とともに生物の先生として奉職され、3年生クラスは3期A組、7期B組、10期C組、20期B組、30期6組を担任されました。
平成13年8月ご病気により定年を待たず退職された後は難病との闘いの日々でした。
また、先生は本学同窓会係として13年の永きに渡り、杉朋会組織充実のため尽力され、本会の礎を築いていただいた恩人です。
以上取り急ぎご報告まで
平成17年1月27日
杉朋会会長 矢田 岳夫
弔 辞
大杉並高校を代表し、また、長年の友人の一人として謹んで弔辞を朗読させていただきます。佐藤晃先生は、一昨日1月24日午前2時30分、薬石の効なく永眠されました。ご家族、ご親族の皆様には心より哀悼の意を表します。
先生、長い闘病生活、本当にご苦労様でした。入院する前から難しい病気と伺っておりましたので覚悟はしていましたが、やはり貴方の訃報に接すると悲しく、辛くなります。
私と先生の始めての出会いは、中大杉並高校創立時の昭和38年3月だったと思います。駿河台の中大記念館で、初代校長の鈴木俊先生と事務長の栗原先生と一緒でした。校長から、静岡県三島市にある国立遺伝研究所の助手をしていた優秀な先生であるとの紹介がありました。以来、私達は理科の生物と地学の教員として、貴方が退職する平成13年まで38年間、職場を共にしました。
佐藤先生は、生物の教員として熱心でいわゆる熱血先生でした。授業では生徒達に分かり易くなるようにと、よくたとえ話をしました。そのたとえ話が適切で面白く、生徒達には人気の授業でした。板書事項は完全に諳んじていて、角張った独特の字で赤や黄色などの色チョークをふんだんに使って書くのが特徴でした。一方、生徒たちがノートや教科書を忘れると厳しくしかり、誤魔化したり嘘をつくと、頭の偏差値だけでなく、心の偏差値が大切だと言って諭しました。
NHK教育テレビのヒヨコを使った遺伝の番組に出演したこともあり、生物部のクラブ活動では難しい遺伝の研究を指導していました。生物部がなくなってからは、長い間ソフトテニス部の顧問をし、生徒たちと一緒にプレーをするのが常でした。近年は中杉の同窓会である[杉朋会]の顧問をしていて「これからの中杉はもっと卒業生を大切にしなければいけない」と言い、杉朋会の名簿作りや組織作りに尽力されました。今日、ご会葬いただいた中杉の教職員を始めOB・OGの皆さんは、このような先生の人柄や情熱に惹かれた人たちだと思います。
先生は小柄な身体ではありましたがスポーツは万能で、また凝り性でした。学校でスケート教室が始まると早速スケート靴を買い、ボーリングが流行ると、マイボール・マイシューズ・マイバッグまで用意しました。この話は今でも中杉の語り草となっていますが、彼がまだ若い時、学校の近くの中華料理店[喜楽]さんからラーメンと一緒に現金の出前まで頼むという豪快な面を持っていました。語りつくせないエピソードの持ち主で、皆から好かれ、愛された先生でした。貴方は間違いなく、中杉の宝で、名物先生の一人でした。
教員会議や理科部会での先生の発言はいつも公平・公正で、我を張ることはなく、生徒達のこと、学校の将来や全体のことを考えての発言でした。
私達二人は年齢が近く、同じ教科ということもあり馬が合っていました。家族のこと、子育てのこと、個人的なことをいつも本音で話し合いました。授業での失敗談やうまくいった話、教育のあり方、高校の教員とはどうあるべきかをよく議論しました。また、試験期間中になるとボールが見えなくなるまでテニスをし、それが終わるとビールや酒を酌み交わしました。今はなき国語科の与儀先生や当時若手の先生方が加わると話が面白くなりもっと盛り上りました。あの頃は忙しかったけれど毎日が楽しかった。
教員テニス同好会では、体力に物を言わせる我流タイプの堀口・山崎組とスクール育ちで華麗な正統派タイプの佐藤・山本組の対戦がよく組まれ、合宿で熱海まで行ってプレーを楽しみました。この時の因縁の熱海対決は結局、佐藤・山本組に軍配が上がりました。しかし、山崎・山本・堀口はまだ元気なので、あと何年か、何十年かして全員が天国に行ったら、今度は天国決戦をやろうじゃないか。
2年位前、貴方との会話がまだ出来る時、久しぶりに病院へお見舞いに行くと涙を流して喜んでくれました。学校の様子や生徒たちの話、同窓会やOBの話を聞くのが嬉しいらしく、うなずきながら聞いていました。帰り際に「また来るからね」と言ったら、小さな声で「堀口さんも忙しいのだから体に気をつけて」と自分のことを棚に上げて、他人のことを心配するそんな優しさを持ち合わせている先生でもありました。
中杉の教員室は、今、世代交代が行われていて、新しい優秀な先生が多くなっています。これからの中杉はこれらの先生方に任せようではないか。何の心配もありません。
佐藤先生。 晃さん。 貴方の人生は、少し短かったけれど立派だった。後輩達のよい手本になると思う。いろいろ心配のことや心残りのこともあるかも知れないが、お子さんも無事に成人されたし、親としての務めは立派にやり遂げたと思う。
どうぞ、これからは安心して眠ってください。
なお、先生のご遺体は東邦大学の医学部へ献体されます。日本の難病治療の研究、医学の発展のためにという生前からの遺言です。貴方は最後の最後まで、皆のために、全体のことを考えていた人でした。 晃先生。 さようなら。
中大杉並高校 堀口 興
平成17年1月26日(水) 告別式にて
東村山市恩多町2-41-3「ベルホール」
佐藤晃先生を偲んで
在りし日の佐藤晃先生(地元の青葉ゴルフ会に於いて)
佐藤晃先生が平成17年1月24日、享年66才でご逝去されました。ここに、生前の功績を偲び謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
先生は脊髄小脳変性症という難病に罹り、平成13年8月をもって杉並高校を退職されました。その頃は病気の影響も少なく教鞭をとれる状態でしたが、生徒に迷惑をかけては申し訳ないと決断されました。二学期の始業式で、生徒にきちんとお別れの挨拶をしての退職でした。退職後、1年ほど家族で旅行されたりしながらのんびり過ごされましたが、平成14年10月に入院されました。その後、懸命に闘病されていましたが、そのかいもなく帰らぬひととなられました。直接の死因は肺炎とのことでした。
生前に自身の葬儀をイメージして
入院直後、「これから先、自分の意志を伝えることができなくなるように思うので、今のうちに辻さんに伝えておく」と言われてその内容をメモしました。そのメモを覚え書きとしてまとめ、奥様を交えて本人に内容を確認しました。その覚え書きを奥様と私が二部ずつ持ち、一部は自宅に一部は常に持ち歩いていました。これはいつ如何なる場で訃報を受けても動けるようにとの配慮からでした。参考のために覚え書きの内容を記して置きます。個人情報も入っているので差しさわりのない程度にとどめます。
1. 葬儀屋・・・三光商会とする。
2. 僧侶・・・三光商会に依頼する。
3. 葬儀の規模・・・中程度
4. 弔辞・・・堀口副校長
5. 告別式、出棺時の挨拶・・・実家の弟
6. 献体・・・東邦大学医学部 解剖教室に登録済
7. 世話人代表・・・辻
8. 連絡分担 奥さん・・・実家・親戚・地元自治会・東邦大学医学部
辻・・・杉並高校関係、杉朋会→○○先生、旧教職員→○○先生
クラス、テニス部卒業生→○○先生、知人、友人
*すべて連絡先の電話等は記入してあります。
このように生前に遺言のような形で作ってあったので、通夜、告別式は佐藤さんがイメージしていたものに近い形となったものと思われます。もし佐藤先生が生きていて、祭壇を見たら腕組みして、全体をみながら辻さんOKと言ってくれたと思います。
葬式は密葬される方など、100人100様です。佐藤先生のように生前に自分の意志を伝えて置くことにすれば、故人の意志に沿った葬式が行える。そのことを教えてくれたように思います。
献体について
文献によると献体とは、「医学、歯学の大学における人体解剖の教育、研究に役立てるため、自分の遺体を無条件、無報酬で提供することをいいます。また、献体の登録には配偶者、親、子、兄弟姉妹の同意が必要となります。」と書かれています。親族の反対もあったようですが、今後の医学発展のためだと懸命に説得されたと聞きます。高校教師の中で医学に一番ちかい生物教師として立派というほかありません。口では言えてもなかなか実践できるものではありません。
通夜、告別式は通常どおりに行われました。葬儀のあと、ご遺体は火葬場でなく、東邦大学に向かいました。東邦大学では解剖学習終了後、大学側で丁寧に火葬し、ご遺骨はご遺族にお返しされることになります。時期的には本年の9月頃と聞いています。
難病「脊髄小脳変性症」について
小脳と外部の神経を連絡する神経周辺が変性し、機能しなくなるために起こる病気とのことです。小脳は体の各部が運動するとき、細かな動きの調整をする神経器官です。
小脳や脳幹(脊髄の上端と脳をつなぐ部分)から脊髄にかけての神経細胞が破壊され、次第に体が思うように動かせなくなる神経難病。原因不明、治療法なし。
自らの体を献体に提供するなどの真似はできませんが、死後の家族が困らないように生前に自分の意志を伝えて置くべきであることを学びました。
ご冥福をお祈りしつつ・・・合掌
中央大学杉並高校(理科・化学)
辻 博康
2005年01月24日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
浅野達雄先生 (平成16年3月退職)
「孫が入学しました」という記事が載るのを楽しみに
元英語科教諭 浅野 達雄
考えてみれば、三十五年前の中央大学英文学研究室で、紅茶を飲みながら懇談している時のことでした。瀬尾裕先生から「中大杉並高校から非常勤講師を寄越してくれという依頼がきとる。キミ、行ってこいや」と言われ、野崎孝先生からは「金を貰って教える立場だからな。下調べをしっかりやり給えよ」と恒例の厳しい忠告を受け、朱牟田夏雄先生にまで、(きっと、ご心配だったのでしょう)「これ、少しは参考になると思う。あげるから使いなさい」と、今でも大事に保管している分厚い新品の語法辞典を頂きました。 そんな偶然から、初めて見た時は「なんじゃ、これは」と驚いたオンボロ木造校舎で、初代校長の鈴木先生と教頭の田中先生に面接を受けました。恐ろしいことに、その時にはもう担当の時間割が決まっていました・・・。
先日、退職後の荷物を片付けていますと、当時作成したガリ版刷りのテストや練習問題のプリントが出てきましたが、今から見ると冷や汗ものの副教材ばかり・・・八期生男子、九期生女子の諸君、改めて小生の三年間に渡る「長い教育実習」に御協力いただいて有難う御座いました。また、ほぼ同時に勤務させていただいた、当時は「本物の定時制」で就業生徒の多かった中大高校の皆様にも、この紙面をお借りして、懐かしい思い出と共にお礼を申し上げます。
その後、ご縁があり都内の千代田女学園高校の専任教諭となりました。すでに百年近い伝統ある学校で、英語科の男性教員は最年少の小生一人。ハーレムというより、奴隷の身分でした。元来が呑気で世間知らずゆえ、週に一、二度は校長・副校長室に呼ばれ、お叱りをまじえながら「教職」というものの基本を厳しく諭されました。今で言えば厳しい「初任者研修」を受けたようなものですが、後から考えてみると本当に有難い「叱咤激励」でした。そのまま一生勤務するつもりでおりましたので、中大杉並から専任のお話をいただいた時は正直、本当に迷いました。その折に「自分の卒業した母校の系列の学校で教えることは、ある種の名誉ですよ」と送り出して下さった前任校の管理職・同僚の暖かい励ましには今でも頭が下がります。
中大杉並での二十九年間の専任教員生活は、その初年度から「なんと、イキの良い職場であろうか」の一言で、その印象が最後の年度まで続いた感があります。まだ、やっと五十年を迎える学校です。良くも悪くもその「活気」が無くならぬ様、そしてそこから「伝統」が生まれてくることを信じています。やがてはこの同窓会便りの中に「こんど孫がお世話になることになりました」・「嬉しいことに、ひ孫が入学しました」というような記事 が載るのを楽しみにしています。
それにつけても二十九年間の内、二十五年間が「生活指導係」だったのはどういう因縁でしょう?旧友からも前任校の方々からも「浅野君が生活指導?」と疑問の声と笑いがあがります。その面では「師匠」であった堀口興副校長と中野幸一先生を「ご苦労様でした」と来年度お見送りしてからと思っておりましたが、体調等の面からこの三月にお先に失礼をする事になりました。最後には入院騒ぎで、「立つ鳥跡を濁さず」どころか大迷惑をお掛けしてしまいました。そんな訳で、誠に会わせる顔も無く、同窓生の諸君にも不義理を尽くしました事をこの紙面をお借りしてお詫び申し上げます。幸いに退院後の体調は良好。何よりも朝飯、昼飯の美味いこと。体重と体型は諸君の在学中と少しも変わりませんが。
退職後、まだ三ヶ月。すでに故人となられた冒頭に紹介した三先生から「不惑を過ぎたら読み直しなさい」と言われた書物を、遅ればせながら、老眼鏡をかけ赤鉛筆を片手に読んでいるのが、学生気分に帰ったようで楽しくて仕方がない今日この頃です。
Memories of Mr. Asano
吉川 伸一郎
浅野先生と初めてお会いしたのは、私が本校の教員採用試験を受験したときのことでした。筆記試験の監督をしていらっしゃった浅野先生には、非常に紳士的な第一印象を持ちました。
その後その第一印象は現在まで裏切られたことはありません。自分の意見を主張するときはする、他人の意見を尊重するときは尊重するといったように、いわば何事もバランスを考えつつ行動なさっていたように思います。1年という短い時間ではありましたが外国語科・生徒部とたくさんの接点を持たせていただき、その中で、授業等英語に関することはもちろんのこと、高校教師としての姿勢や態度、生徒との接し方など、様々なことをまだ新任間もない私に親切に教えてくださいました。
渋谷に一斉校外補導に一緒に参加させていただいた際、おいしいラーメン屋さんを教えていただいたこと、渋谷の町を歩き回ったこと、その帰りに高田馬場で飲みながら中杉の将来を語りあったことなど、非常に懐かしく思います。
あの当時はこれからずっと浅野先生と共に明るい中杉を築き上げていくんだと当然のように考えておりましたので、実際今でも浅野先生がご退官なさったことがなんだか夢のように思えます。今後も中杉のわれわれ後輩に、客観的視点から、いろいろアドバイスをいただければと願っています。
前野 桃子
浅野先生といえば・・・という話をし始めると、みなが物まねをし始めた。独特の手の動き、よくおっしゃっていた台詞・・・でも、ふと「本物」の浅野先生を中杉で拝見することはもうできないのだなと思い、寂しくなった。
「たきさん」「よっちゃん」「大兄」「姫」「殿」「大奥」などユーモラスなあだ名で同じ科のメンバーを呼び、生徒が「宿題を忘れた」と言ってくると「おぬし、わしに喧嘩を売っているのか」と諭し、お辞めになる時の引継ぎ資料には大きく「遺言」というタイトルがついている(受け取った教員はのけぞった)・・・普通ではちょっと考えられないような言動でも、浅野先生がなさると「中杉」の風景に自然になじんでいたと思う。
今でも外国語科研究室のドアを開けると、椅子に正座をして座っている浅野先生がいらっしゃるような気がします。今まで本当にありがとうございました。これからも、中杉を、外国語科を温かく見守ってください。
2004年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
岩崎友弘先生(平成15年3月退職)
いま我々が若者にできること
――現代高校生像考察――
岩 崎 友 弘 (平成15年3月退職)
昭和38年2月某日、新中大杉並高校設立のために、6人の新任教員が初会合を持った。古ぼけた木造3階建ての校舎に集まった。一部の方を除いては全くの初対面であった。
昭和37年3月末まで、旧中大杉並高校(現 中大附属高校 小金井市)が存在したのである。中大杉並高校の名称を持って小金井市に移転しようとしたが、東京都教育委員会に反対されやむを得ず「中大附属高校」という男子校の新設高校になったのである。女子校としてスタートする予定の本校が、近所の女子校に反対され共学校として再出発したのである。
教員という立場でとらえると、教員全員が教科主任であるという事である。また教員の世界には校務分掌というものが存在する。校務分掌とは授業以外の重要な各校務(一般企業の事務等に当たる)のことである。恐らく一人で三人分位の諸実務をこなしたことと推察する。
最近の高校生は男女問わず、右手には常に携帯電話を持ち歩いている。「ケータイ」が正しく、「携帯」ではない。最近の本校生について感じるまま書きたい。
一言で述べるとすれば、現代の若者は「映像文化」の申し子達である。映像とは、映画やテレビに映し出された映像のこと。その映像に、彼らは、ある時には感動し、ある時には反発する。感動、感激、感銘するときはよい結果、影響を彼らにもたらすだろう。しかしこの見方は正しくない。100%は正しくないということになる。取捨選択を間違えるととんでもないことになる。発展(成長期)途上の彼らは、経験不足、未熟さ等が成長の障害物になってしまう。その結果、取捨選択を間違えたという事になってしまう。結論として、この感銘や感動のうち70~80%は正しいと考えるのが妥当である。残りの30~20%は正しいとは限らないということになる。
ある哲学者が言った。「世の中には、絶対なるもの、完璧なるものは何一つ存在しない」と。何故か、彼は著書の中で次のように述べている。「人間が勝手に、絶対に正しい、そして完璧だとただ思い込んでいるだけである」と。
膨大な映像文化の影響下、真っただ中にいる彼ら、若者にとって今何が必要か。映像文化の坩堝の中で生きていくにはどんな手段、方法があるかということである。現代社会は情報過多の社会とみなすことができうる。映像文化に影響されない者、関心のない若者は孤立感を感じやすい傾向がある。この孤立感というものが厄介物であるのだ。この難敵の孤立感という物こそ、現代の若者、高校生を蝕んでいるのではないか。若者皆の持っている孤立感という物を、大人達が解決してやればよいのだ。しかし、若者本人が自ら解決すればベストなのだが。
この孤立感(孤立意識)という厄介物は、若者各自が皆同じ孤立感ではない。十人十色だ。しかし、人間という生き物は集団の動物である。孤立感と対峙するものは連帯感(連帯意識または集団意識)である。若者は、高校生は、この相反する二種類の意識と日夜闘っている。彼らの、若者のこの闘いに、我々大人達が力を貸さなければいけないと思う。しかし、このことは、若者の持ってる悩み、苦悩、孤立感などの問題解決にはならない、彼らに対する問題提起に過ぎないのだ。
情報過多のこの現代社会において、そのあまりにも多い情報の取捨選択をする知恵や知識を彼らに示唆することが、我々の急務である。我々大人は一丸となって、今こそ彼ら高校生に力を貸さなければいけない時であると思う。一昔前よりもはるかに人間関係の難しい社会になってしまった。
(この文章は以前書いた文章を手直しした文章である。)
岩崎先生の思い出
山 本 季 夫
岩崎友弘先生が昭和44年に英語科の兼任講師として本校に赴任された時は、東洋大学の修士課程に在学し、フォークナーの研究をされていました。学部在学中は中大で瀬尾裕教授の元で英文学を学び、また言語学にも興味を示し、ブルームフィールドの構造言語学から、チョムスキーの生成文法に至るまでかなり勉強に励んだということを、彼を推薦して下さった瀬尾先生からお聞きしました。当時英語科の選任は皆文学畑出身だったので、岩崎先生は我々の期待を一身に受けて、さっそうと現れたのでした。
青森県弘前高校の出身で、自分の経験からか勉強は教わるものではなく自ら学ぶものだという信念を持っておられたようです。従って一つ一つ手を取って教えるのではなく、教師が語る一見勉強とは無関係に思われることからヒントを得て、何かを学び取るのだという教え方でした。
岩崎先生の人柄を簡単に云えば、博識、無欲、好人物と云えるでしょう。
ある時ドイツでは音楽が発達し、フランスでは絵画が発達したのはなぜだか分かるかと聞かれました。私はそんな事は考えたこともありませんでしたが、彼が言うにはドイツには美しい森が沢山あるから敵を見分けるのに耳が発達し、フランスは平野が多いから視覚が発達したのだと。またある時は、シルクロードは誰が命名したのか教えてくれたりもしました。彼の口から面白い話が次々と出てきたものです。
生徒達からは親しげに「岩さん」と呼ばれていました。よく廊下で生徒を捕まえては話しかけている姿が印象的でした。
彼が専任になって間もない頃、私にきれいなカフスボタンをくれると云う。よく聞いてみると何と奥様からのプレゼントでした。「とんでもない」とお断りしたことがありました。
無欲なことは言うまでもありません。服装や食べ物なども一切気にしません。おにぎり二コまたは菓子パン二コでお昼を済ませることもあったようです。風邪を引いたとか、体調が悪いなどという話も聞いたことがありません。学校を休んだこともめったにありません。現代の仙人とも言うべき先生でした。
2003年04月07日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
関 俊秀先生(平成15年3月15日ご逝去)
新しく変わる中杉を見守って欲しい
関 俊秀 (平成14年3月退職平成15年3月15日ご逝去)
杉朋会の正会員にしていただき、ありがとうございます。 私は東京理科大時代、数学の授業より卓球の練習の方が好きでした。同期の友人とは現在も付き合いが続いております。 私が杉並高等学校に奉職できたのは、卓球部先輩の高尾先生による所が多いと思います。
入校は1期生が3年生となるのと同時でした。右も左もわからない大学卒業1年生が、すぐ2年生の担任となりました。 清水博士君がクラスをうまくまとめ?無事終われました。次年度も2年生担任。初めて卒業生を出せたのは5期生でした。
3年D組の諸君とは友人の付き合いをしております。昨年私の還暦の祝いをしてくれました。
入校当時、教員は若者が多く、毎日のように谷内田浩一先生指導の下に、荻窪で飲み多くの話を聴き、教員は一団となっていたように思います。
私は芝高等学校卒業ですが、3年生の時東京タワーを作り始めていましたので、毎日できるのを見ていました。当然TVは見たことはなかったと思います。最近この10数年間のTV、パソコン等の進歩は夢のように思います。ただ若者は、 インターネット、携帯の使用方法がわかれば良しと思っている。私はコボル、フォートランの2つの電算についての理論を日本電子専門学校で学んだが何の役にも立たなかった。杉並高校では選抜コースで電算の理論のベーシックは教えております。
学校の授業内容も本年より変わると思いますし、新しい教員も多くなり、高校創立時代の教員も減ってきました。新しい高校に変わっていきます。杉朋会の皆様、見守って下さい。
私の長男、長女も30歳、独立しています。 私は4年程前から2年間ラドーという英会話に行っていました。ここは米国系で、各国から教員が来ていましたが、グループレッスンのためか実力はありません。4月より教員全員、イングランド人のケンジントンスクールに週1回行っています。今回は1対1で教員は同じ人です。週1回でも大変です。特別の目的はありません。
最後に、酒で体調を崩し、先生方事務の方々に迷惑をおかけしました。皆様の助けがあり、杉高を退職することができました。37年間を忘れることは無いと思います。ありがとうございました。
(平成14年8月にお書きになられた文です)
関 俊秀先生とのこと
高尾 弘(数学科教諭)
とにかく痩せてましたけど、着るもの、履くものにはこだわってましたね。良く似合ってましたでしょ。おしゃれでしたよね。
昭和17年の早生まれでしたから、小泉純一郎首相と同学年です。高校違いますけど。私とは東京理科大学数学科で一緒でした。というよりも理科大の卓球部で一緒に練習した仲でした。私のほうが大学では1年上でしたので偉そうにしていましたが、実は私とも同期です。高校違いますけど。
昭和40年に中央大学杉並高校に数学科教諭として入職なさいました。私は1年前に就職していましたから、ここでも私は先輩です。思えば長いつきあいでした。中大杉並ではまさに同僚なのですが、つねに私を先輩として見てくださいまして、数多くの酒席を共にしましたが、そのような席でもことば遣い等、気をつかってもらいました。
ギタ-がお上手で、教員バンド「青い三角関数」のリーダーとして私ども音楽素人を指導して頂きながら(私もスチールギターを担当しました)、何年間かは忘れましたが、緑苑祭のステージで演奏いたしました。亡き与儀由幸先生の名司会のせいもありまして、勿論こころ優しい生徒諸君のおかげさまで、ステージは好評であったと自負しております。当時のボーカルには、安川定男第二代校長先生、高橋憲冶先生、松村光雄先生、児玉美絵子先生、太田洋三先生などがおられ、多士済済でした。
晩年体調悪くされてからも、英会話のお勉強は欠かさなかったと聞いております。また、お亡くなりになる直前にはいっさいの延命処置を自らお断りになったと聞いております。なんと潔い、男気のあることよと敬服いたしました。
お別れの日、桐ヶ谷斎場でのお骨あげの際、ご家族がご遺骨にサングラスをかけていらっしゃいました。
あちらに行かれましても、粋でかっこよくいてください。
ご冥福を祈りつつ…合掌。







2003年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
元教頭 鈴木眞夫先生(平成15年3月退職)
思い出ポロポロ ――すでに秋声――
元教頭 鈴 木 眞 夫(平成15年3月退職)
昭和39年4月、中央大学杉並高校へ講師として奉職。1期生の2年世界史を担当。翌40年専任となり、2期生の2年B組の担任となる。その後卒業生は3期生のC組、7期生のC組、11期生は1・2年は男子クラスであったが、3年生は女子で3組。16期生の2組、21期生の2組、26期生のA組、32期生の1組、36期生の8組と計8回送った。
それぞれに思い出深く、球技大会・体育祭・緑苑祭と生徒と共に燃え、それぞれの学年で種目優勝をプレゼントしてくれた。中でも21期生の3年2組は、球技大会ではバレーボール、バスケットボール、ハンドボールと全種目を制覇して完全優勝。最後に優勝を決めたハンドのメンバーは全員がガチガチとなり、1点差で優勝を決めた時は虚脱状態であった。
クラブ顧問としては地歴部を受け持ち、毎年夏季合宿で各地の名所旧跡を訪ねた。特に平泉や遠野が印象深い。この間、2年だけであったが新聞部の顧問も兼任。その後、民族同好会が11期生により設立され顧問となる。日帰りの大多喜城見学。夏季合宿は飛騨高山や遠野へ行く。楽しい合宿を経験した民研も会員不足で休会。その後、23期生から漫画研究部の顧問となり、38期生の1年まで継続。その間、31期生のハンドボール同好会設立により、漫研と顧問を兼任。この同好会は、学校の施設を使用しないという条件で認められたもので、毎週水曜と土曜日に中大附属で合同練習。他校への遠征練習はきつかったが、よく堪え技術を向上させた。卒業後もよく団結している。36期生が3年の時に引き受け手がいず、急遽野球部の顧問となる。試合や練習時の怪我が多いため必ず帯同。その為、日曜・祭日一切なし、夏休みも冬休みも5日間休めただけ。しかし、成果はあがり、夏大会で36期生・37期生は4回戦に進出。特に37期生は中大附属に大逆転勝利で感激一入。38期生は1回戦でシード校に3-5で敗れたがよく善戦し、大満足。39期生の今年は打撃がよく大いに期待している。
以上、中杉39年の思い出を記してみたが楽しいことばかりで卒業生の皆様に感謝。生徒と一緒に活動するをモットーに過ごしてきたが、動きの悪くなったのを痛感。すでに秋声を聴き、退職を決意。
長い間、ありがとう。今後もよろしく。
鈴木眞夫教頭先生の退職
副校長 堀 口 興
今からちょうど40年前の昭和38年、中大杉並高校は創立された。この創立期に奉職された先生方が定年退職の時期を迎えている。その中心は昭和14年生まれの先生方だ。当時「14年組」と呼ばれ、亡くなられた国語科の与儀先生、社会科の鈴木先生、松村先生、英語科の山本先生、理科の堀口でなんと6人もいた。
14年組は結婚する時期も子どもの年齢もほぼ似ていた。今からして思えば中大杉並高校が発展し現在の礎が出来上がっていく時期と、この6人が教員として成長していく時期と一致していた。何人かの先輩教員の指導のもと毎日忙しく、教員室は遅くまで電灯がついていて活気があった。それでも毎日が充実していて楽しかった。生徒と一緒に先生も青春だった。
14年組の一人である鈴木眞夫先生は、本来の定年まであと2年の余裕を残し、この3月31日をもって退職された。草創期に奉職されたベテランの先生から中堅・若手教員へのスムーズなバトンタッチを考えての勇退だ。
鈴木先生の授業は面白いと評判で、教科書には出ていない歴史の裏話に人気があった。先生の影響で文学部史学科の西洋史や東洋史専攻に進学する生徒が少なくなかった。
趣味の囲碁は5段で強かった。さすが最近では、碁を打つ姿は見ないが物事を深読みできるのは、この囲碁で培われたものであろうと推測する。
鈴木先生はこの2年間、教頭として活躍された。教頭という激務にありながら、昨年は9時間、今年は6時間「世界史」の授業をこなした。教員として現場から離れたくないという考えである。3年前から野球部の顧問という激務も引き受けていた。今年度は、初戦にシード校と当たり3対5と惜敗したが、一昨年度、昨年度と2年連続4回戦まで勝ち進み、中附を破る金星を挙げるまでに成長させた。
教頭になってからは研究日や日曜日、長期休暇も取れない状況が続いた。楽しみにしていたご家族との旅行も時々キャンセルされた。ご自身では何も言わないが身体のあちこちにガタが来ていると思われる。しかし、鈴木先生には、まだまだ中杉の発展に参画していただき、これから採用される新人の教育にも頑張ってもらいたいが残念である。
先生、長い間お疲れ様でした。これからはゆっくり静養され、好きな読書や旅行を楽しんでください。
2003年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
浜田丞平先生(平成14年3月退職)
一瞬の永遠
浜 田 丞 平(平成14年3月退職)
卒業生の皆さん、お元気ですか。今年3月に晴れて定年退職して以来、当然のことながら日常生活が一変しました。懐かしい少年時代に戻ったとでも言うのでしょうか、まずは現今の心象を報告いたします。
今、静かに波が漂う海の中を、ゆっくりと泳いでいます。ゆるやかなうねりの谷に没するとき、すべては視界から消え去るのです。波頭の頂に持ち上げられると、後にしてきた浜辺がはるかに見渡せます。頭上は、日中の星が見えるのではないかと思えるほどの、黒っぽい青空です。こうしていると、今がいつで、自分が誰であるか、今まで何をしてきたのか、これからどうするつもりであるかを、すっかり忘れています。周囲には誰もいません。蜻蛉か蟷螂の一瞬の夏の命を、永遠と感じて生きるこの懐かしい感覚に戸惑いを禁じえません。誰かがひそかに、パンドラの函を再び閉じて、あのおなじみの、確執、妄想、錯乱、怨嗟、猜疑、嫉妬などもろもろを封じ込めてしまったに違いない。
突如、思いがけぬ近くからの声に驚きました。音声はよく聞こえているのに、意味はわかりません。振り向くとディンギー級ヨット上に人の姿が有りました。たった今、海の泡から生まれたばかりのアフロディテだと、一瞬おどろいたのです。この土地で他国の人と話すときの共通語とされている言語で、この地の言葉を理解しない旨を伝えて見ますと、あの共通語らしき言葉で反応がありました。聞き取れたのは、美しい響きの中の・・・アイス・コールド・・・だけでした。たしかに、大西洋の水は心地よい冷たさでした。「シー、ムイート・フリーア」と、なぜかこの地の言葉で、わたしは答えていました。黄金色のヘアーだけをまとっていたアフロディテの姿は、今も脳裏を離れてくれません。
第1期生の卒業学年を担任して以来、ずいぶん永く勤めたような気もしますが、日日是好日と思い、一瞬の永遠を、感受性豊かなあなたたちと共鳴し、共有できたのであれば、私の38年間という一瞬も幸福であったというほかはありません。
2002年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
山崎省次先生(平成14年3月退職)
忘れられない授業そして生徒たち
山崎省次(平成14年3月退職)
地域で「源氏物語」の講筵を開いて、はや十九年になる。33帖の「ふじの裏葉」を読み終えて、いよいよ佳境の「若菜」の巻に入る。うれしい限りである。この社会人対象の講読はもちろん中杉での古文の授業の延長線上にあることは言うまでもない。
源氏物語研究の泰斗山岸徳平先生の指導のもとで卒論、修論を書いた与儀先生をはじめとする国語科の先生方に相談して、中杉の三年次の古文の授業はすべて「源氏物語」をやることに決めたのは6期生のときだった。当初は講義中心の授業であったが11期生のときから私は半分を演習形式にした。
演習は班単位の発表で、近代の学者の註釈書6冊をベースに、「河海抄」をはじめとする古註、さらには池田亀鑑の「源氏物語大成」まで使って本文の異同にも触れさせた。受講者の質問もかなり突っ込んだもので、大学の演習並みであった。ある生徒などは「若紫」の演習で光源氏が十八歳の折に病気の加持祈祷に行った「北山のなにがし寺」の諸説を検討するために、京都まで調査に赴いたという。
最後に提出する班のまとめのレポートも各班とも実に美しい表紙をつけたかなりの枚数の立派なものであった。内容もさることながら美々しい装丁のみごとさに、34期生の何班かのものを写真に撮って卒業アルバムの一頁を飾った。私の授業の影響のせいか、大学で「源氏物語」を卒論に選んだ生徒が3名いる。29期生の佐藤亜也子さんと30期生の大泊幸子さんである。34期生の関麗子さんは今、悪戦苦闘の最中である。
論文といえば忘れられない生徒が2人いる。1人は1年次の現代文の授業ですぐれた啄木論を150枚も書いた10期生の江間順子さんである。もう1人は2年次で「こころ」論を書いた17期生の永目千恵子さんである。私の提示した20本以上の「こころ」の論文をきちんと読みこなし、自分なりの論を展開した卓逸なるもので、大学の卒論としても恥ずかしくないものであった。漱石の演習では22期性の萱間友道君の質問も鋭いものがあった。
中杉の3年次の自由選択授業は実にたのしかった。何せ自分の得意の教材で授業ができるのだからうれしい。私の専門の近世文学の演習は特に思いで深い。23期は西鶴の「好色五人女」を読んだ。女子の受講者が多く、彼女たちが遊女や遊郭のことなどを熱心に調べているのを図書館の人が奇異な目で見ていたと言う。長沼扶佐子さんや葛岡典子さんの勉強姿が眼に浮かぶ。近世文学と言えば15期生は芭蕉の初期の句をかなり綿密に読んだ。16名という少人数であったが、捧剛君、由良哲次君、八木貴子さんなどの優秀な生徒が多かった。その中で山岸竜生君は大学、大学院と引き続いて近世俳諧研究に打ち込んだ。芭蕉研究家の碩学今栄蔵教授門下の逸材として研究に励んでいたが、懇請して中杉にきて貰った。山岸先生は今や中杉の国語科の重鎮であるのみならず、中杉教員の枢軸たる存在である。
中杉38年の教員生活で忘れられない生徒は限りない程いる。しかし只一人を挙げよといえば19期生の小寺泰二君をおいて他にない。小寺君は3年間私が担任で、主席で中杉を卒業して法学部に行った。中大卒業後、仏教関係の大学に入学して学芸員の資格を取り、やがて京都府庁に就職した。京都府が与謝野鉄幹・晶子の終生の経済的、精神的援助者だった小林天眠より鉄幹・晶子の一万八千点に及ぶ資料を寄贈されて、その中から精選して平成5年に鉄幹・晶子展を開催した。
そのときこの任に当った小寺君より招待されて、私は京都に行った。その夜、高野川のふもとの割烹で、彼が高校時代に私の授業で暗記させられた李白の「春夜桃李の園に宴するの序」の詩賦を掛け軸に仕立て、それを飾して夜を徹して酌み交わした日のことは忘れられない。またこの2月の私の最終授業に京都から駆けつけてくれるときにくれた手紙が素晴らしい。それを38期生に読んで聞かせたらいたく感動してくれた。紙幅の関係で具体的に語れないのが残念であるが、とにかく教員冥利に尽きる。すばらしい38年間であった。
2002年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
佐藤克典先生(平成13年11月27日ご逝去)
背中で教えてくれた佐藤先生
19期生 内田 太
私は、19期生(昭和59年3月卒)。佐藤克典先生がつくり、顧問をされていた硬式テニス部のキャプテンでした。 訃報を聞いたのがつい先日のことで、まだ気持ちが動転しており、とりとめのない文章になってしまうかもしれませんが、克典先生に一番心配をかけ、また目をかけていただいた者たちの代表として先生の思い出をここに書きたいと思います。
高一の時。新入生向けに部活動紹介をしていたオリエンテーションでのこと。壇上にあがった克典先生は、テニス部にはいろうかと真剣に説明を聞いていた私に、びっくりするような一言をおっしゃられた。「高校3年間でテニスうまくなりたいなら、うちの部には来ないでください。」
その理由は、校内にテニスコートがないため、部としては人並みの練習ができないからだという。もっとも、「大学4年とあわせた7年間で、うまくなるという考え方でいくならば、入部をおすすめする。」入部をすすめるオリエンで、顧問が出てきて「来ないでください」、なんてありかよー、と思ったのでいまでもよく憶えている。
高2の時。私学戦(「私立高校だけの大会」)男子シングルスで、3つ勝って初日を勝ち残り次の日曜日も試合です、と報告に行ったときのこと。 次は4回戦で、シードの選手とあたります。と、胸を張る私に(なんせコートのない弱い部だったので、私学戦で勝ち残るのは大変なことだったのである)、克典先生は、「そうか。」とだけ、そつけないカンジ。もうすこし喜んだり、よくやったの一言あったりしてもいいのではないかなー、と私は思った。しかし、後で聞いたところによると、国語研究室の先生方の前では、とても喜んでいたらしい。(私の担任だった二人の先生はいずれも国語研究室で、克典先生と仲がよかった)
高3のとき、我が硬式テニス部は不祥事をおこし(コンパ発覚)、無期限休部となった。 私たち19期の部員は、高校最後の大会に出場できなかった。 その当時、私たち部員は、自分らのことで頭がいっぱいになり、休部の決定を部員に事務的に伝える克典先生がどのような気持ちであったか、なんて考える余裕はなかった。今思えば、このとき一番悲しんでいたのは、克典先生だったのであろう。苦心してつくった部を休部にするのは、まさに断腸の思いだったにちがいない。しかし、先生は、ぐちも責めや嘆きのことばも一切私たちに言わなかった。
大学生になり、コーチ役のOBとして、テニス部に参加した。夏合宿前に顔見せと打ち合わせをするため、約2年半ぶりに中杉に行き克典先生にお会いした。このとき先生は、「内田さん、どうですか、大学生活の方は。」と、私に敬語を使われたのである!在学中にはありえなかった展開に、私はびっくりした。これまた、今思えば、中杉を卒業するまでは先生と生徒の関係、卒業後は大人と大人の関係と、分けて考えていたのであろう。 これらのことは、15年から21年も前のできごとである。克典先生は、享年55才。とすると、この当時の先生は、今の私たちの年齢だったということになる。(私は在学中、先生いくつなんだろうなんて考えたことなかった。)
克典先生は、20期生の担任をされていたため、私たち19期生は直接先生から国語を教わってはいない。 また、これはこうなんだからこうしなさい、とか、これこれだからこれはやってはいけない、とは言われた記憶がない。 しかし、今こうしていろいろなことを、思いおこしてみると、先生は背中でたくさんのことを教えて下さった。あの当時の先生と同じ年代になった今、先生がどのような目で私たちを見ていてくださっていたのかが、少しわかるような気がする。 あまりに早く逝ってしまわれた克典先生、天国でテニスをされているでしょうか。できることならば、先生といっしょに、ちゃんとしたコートでちゃんとしたボールで、ラリーがしたかった。心よりご冥福をお祈りいたします。
2001年12月20日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向




