「3. 先生方の動向」カテゴリの一覧
- 07年04月01日・・・ 石川和明先生(平成19年3月退職)
- 07年04月01日・・・ 高尾 弘先生(平成19年3月退職)
- 07年01月19日・・・ 訃報 本学二代目校長 安川定男先生(中央大学名誉教授)ご逝去
- 06年06月01日・・・ 鹿島真知子先生(平成18年3月退職)
- 06年05月23日・・・ 辻 博康先生(平成18年3月退職)
- 06年04月01日・・・ 根本俊臣先生(平成18年3月退職)
- 05年10月28日・・・ 堀口 興先生(平成17年3月退職)
- 05年06月30日・・・ 松村光雄先生(平成17年3月退職)
- 05年04月01日・・・ 中野幸一先生(平成17年3月退職)
- 05年04月01日・・・ 山本季夫先生(平成17年3月退職)
- 05年01月24日・・・ 佐藤 晃先生 (平成17年1月24日ご逝去)
- 04年04月01日・・・ 浅野達雄先生 (平成16年3月退職)
- 03年04月07日・・・ 岩崎友弘先生(平成15年3月退職)
- 03年04月01日・・・ 関 俊秀先生(平成15年3月15日ご逝去)
- 03年04月01日・・・ 元教頭 鈴木眞夫先生(平成15年3月退職)
- 02年04月01日・・・ 浜田丞平先生(平成14年3月退職)
- 02年04月01日・・・ 山崎省次先生(平成14年3月退職)
- 01年12月20日・・・ 佐藤克典先生(平成13年11月27日ご逝去)
石川和明先生(平成19年3月退職)
物理と考古学
石川和明
昭和42年に中央大学杉並高等学校に奉職し40年間、平成7年3月をもって無事に退職することができました。
これはひとえに教職員の皆様をはじめとし、日頃から接してきた生徒、後援会の方々、さらには中杉をバックアップし、各種の行事を盛り上げていただいた杉朋会のお陰であったと大変感謝しております。この間に教育課程は何度も改訂されましたが、その度に中杉の特色を失わないような配慮がなされ、一定の成果を上げ多くの卒業生が育っていきました。同窓会に出席させていただき、第一線で活躍する卒業生とお話をする機会を得るにつけて中杉での学校生活が、その後の人生にプラスに作用したのではないかと思う次第です。
表題の物理と考古学について一寸お話をさせていただきたいと思います。
私は中学時代に調布市に住んでいましたが、近くに現在は国指定遺跡になっている下布田遺跡があった関係から土器や石器の収集に凝っていました。高校進学では考古学部のあった都立三鷹高校に進学し、3年間勉強をおろそかにしながら部活動に没頭していました。
大学進学の時期になり、将来の進路を考えたときに考古学では食べていけないと判断してしまい、理数系の科目が好きだったことから中央大学の物理学科に入学しました。
しかし、考古学は捨てがたく、物理と考古学の学際領域について関心が移り、放射性炭素による年代測定、古地磁気、土器の中に混入した微化石などに手を染めました。大学4年の卒論は「古墳時代の土器の破片について」(中大理工学紀要 第13巻)でした。
3年から教職課程を履修し、幸運にも中杉に就職できました。中杉で教鞭を執りながら、ほそぼそと考古学に関心を持ち続けてきました。この間に今年の6月に国指定遺跡に登録された深大寺城跡の調査、昭和45年には宮本常一の指導のもとに行なわれた神奈川県の霧が丘遺跡では縄文早期の鹿や猪を捕獲するための多数の落とし穴を調査し、以後この種の遺構が落とし穴であることが周知されました。同じく神奈川県の古墳前期の全長54mの前方後方墳の東野台2号墳の調査、東海地方の弥生時代の標式遺跡である白岩遺跡では、国宝、伝讃岐国出土の袈裟襷文銅鐸に描かれた糸を紡ぐ人が持つ工字型の木器、(かせ)を発見しました。このは今のところ日本で唯一の完形品です。その他に清瀬市の西原遺跡、下宿内山遺跡調査などに直接携わることができました。現在はあきる野市の原小宮遺跡調査に携わっています。
物理教科書の中には放射性元素の半減期、地磁気の単元などがあり、折りに触れてこれらの調査経験と共に理系と文系の学際領域の話をしてきました。
今後は今まで手懸けてきた調査の報告書が未刊の遺跡が幾つかありますので数年間は報告書作成に取り組んでいきたいと思っています。
中杉の将来についてはこれまでも度々検討され、その成果は校舎改築、現校舎の建築などが行なわれ、教育環境の整備が次第に整ってきています。一方、法人側も中高一貫教育を視野にいれた計画を俎上に上げています。附属高校では中学設置が進行中です。近い将来には中杉でもこの問題が現実化すると予察されますが、中杉が一丸となって適切な対応と選択がなされ、益々中央大学杉並高等学校が発展すると信じています。
5年後には中央大学杉並高等学校50周年祈念式典が催される予定になっています。杉朋会の皆様の絶大なご支援を宜しくお願い致します。
石川先生の思い出
山崎 尊
石川先生が中央大学杉並高校に奉職されたのは昭和42年、今をさかのぼること41年前のことです。昭和42年といえば5期生が入学された年であり、教え子の中には作家の浅田次郎さん(岩戸康次郎さん)がいらっしゃいました。浅田さんが2年生のときには石川先生が担任をお持ちになっていて、当時浅田さんが「並高エレジー」なる作品(その頃の中杉の名物先生が独特の個性をもつキャラクターとして登場するらしい)を書いて、校内でまわし読みされていた、などというエピソードを教えてくださいました。
先生はその温和な表情と人柄で、教員・生徒を問わず誰もが親しみをもって接することのできる先生です。私も中杉に来た当初はさまざま戸惑うことがありましたが、いつも先生の笑顔や励ましの言葉に助けられました。奉職されてからずっと物理部の顧問をなさっていましたが、OB会等で物理部OBの方とのお話を通じてしみじみ感じるのは、卒業後何年経っても先生を慕って多くの方がお集まりになるということは、やはり先生のお人柄ゆえのことであろうということです。
さて、今から8年前、私が講師として中杉の物理実験室にはじめて足を踏み入れたとき、部屋の各所に置かれている岩石やグラインダ、鉱物顕微鏡など、物理の実験室としては意外な器具が並んでいるのをみて、驚いたことを今でもよく憶えています。先生は大学在学中から考古学の研究をなさっていました。中杉に来てからも高校で物理を教える傍ら、昭和40年代は都内を中心に、横浜市や静岡県菊川町(現在は菊川市まで足を伸ばしての遺跡の発掘、50年代になってからは、三宅島、神津島、船橋市と研究のフィールドを移し、平成4年からは武蔵村山市史の編集委員として、武蔵野台地の地形・地質についてまとめるといったお仕事もなさっています。平成14年に刊行された「武蔵村山市の地形地質」においては執筆者として堀口輿先生も名を連ねております。長年にわたる先生の研究についてお聞きして、研究者としてのひたむきな姿勢とフットワークのよさに、ただ脱帽する思いです。
最後の2年間は副校長という要職に就かれて非常に忙しい日々をお送りだったと思います。この時期はちょうど、昭和38年の中杉発足時の先生方の多くがお辞めになる時期と重なり、副校長という職務が従来以上に大変なものであったはずです。しかしそのような中で、3年生物理の授業の教材研究や実験準備にも労を惜しまず、一切の妥協を許さない先生を見て、先生の理科教育に対する強い思いに、感服するばかりです。
また、石川先生とはスモーカー仲間でもありました。最近の喫煙者はどこに行っても肩身の狭い思いをするわけですが、談話室奥のベランダで、夏になると「今日は暑いね~」、冬になると「今朝は寒いね~」などというあいさつ代わりの言葉から始まり、校務に関することから科学の話題、はたまた先生のご家族に関することまで様々なことをお聞かせいただきました。ベランダは私にとってもう一つの学校のようなものでした。
最後に、これから少しはゆったりする時間が増えることと思います。ご自身のお体をいたわっていつまでもお元気でいてください。あらためて長い間本当におつかれさまでした。
2007年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
高尾 弘先生(平成19年3月退職)
弘の43年
高尾 弘
東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)に中央大学杉並高等学校に入職いたしました。弱冠22歳、体重52kg、大学(東京理科大学理学部数学科)でたてのほやほや、痩せていましたけど、張り切っていました。
当時の中大杉並は創立2年目、現役生徒は1年生と2年生だけ、3年生はいません。入職1年目の私はいきなり1年生の担任になりました。1年B組、50名をこえる男子生徒の担任です。彼らも入学したての15歳、記念すべき出会いでした。2年目は3年F組(男子54名、女子3名)の担任です。
この方たちは第1回目の卒業生、いわゆる1期生です。やたら長い(10日以上)北海道への修学旅行に行きました。3年目は3年D組、2期生です。ここには62名(男子52名、女子10名)の生徒が在籍していました。おそらく中大杉並歴代1位の学級在籍生徒数でしょう。
当時、中央大学への内部進学には中央大学が作成する内部試験がありました。高校における内申書と内部試験の2本立てです。学校の勉強に加えて内部試験の受験勉強もしなければならない。生徒諸君も私達教員も必死でした。
私にとってこの3年間は、部活(卓球部、水泳部)の顧問も含めて夢中になって過ごした時でした。5年目(1968年)からの4年間は6期生との3年間と7期(3年E組)の担任でした。このころには私もやや落ち着いてきまして、生徒諸君の顔をはっきり見ることができるようになり、授業にも余裕あるいは色艶がでてきた頃と思っています。また水泳部の顧問としてデッキブラシを手に、プールサイドで選手を応援していました。
10年目(1973年)にしてはじめて女子だけのクラスの担任になりました。11期、1年3組です。時に私は31歳、生徒とは微妙な年齢差です。それはともかく、毎日を楽しくすごしました。3年間連続して担任しましたのは、11期生以降、15期、20期、25期、30期、35期の皆さんで、他に39期生は1年2組だけ、41期生は3年9組だけの担任をしました。
43年間の在任中、担任27回、うち3年生の担任は11回でした。校内での業務の他に、20年以上外部での教育研究活動をしました。主に日本私学教育研究所の数学教育委員として、毎年個人での研究発表や他との共同研究発表をしてまいりました。
また、4年に1度開催されるICME(数学教育国際会議)に4回参加し、そのうちICME-9(日本・東京)とICME-10(デンマーク・コペンハーゲン)ではプレゼンテーションをし、Hiroshi Takao (Chuo University Suginami High School Tokyo Japan)の名で、中大杉並の数学教育の一端を日本のそれとして世界に発信しました。
苦労も多かったこの2度の国際会議での発表は、自分にとって良い思い出であり、大きな財産になりました。特にICME-10での様子は杉朋会会誌13号で大きく取り上げていただいたばかりかパネルにもしていただき、ありがとうございました。
また、2007年2月24日には高尾の退職記念最終授業「私の愛した数式」を行いましたが、多くの卒業生の方々にご参加頂きありがとうございました。あの日のことも私の大事な思い出になると思っています。
あの日登場しました「高尾の点」にちなんで「高尾の会」が2007年4月に発会しました。この会を通じて皆さんと再会できることを楽しみにしております。
なお「高尾の会」の代表幹事をして下さるのは6期生の木場正博さんです。改めまして、杉朋会にはこれからもお世話になります。よろしくお願いいたします。
「高尾先生に感謝!」
中央大学杉並高等学校数学科 谷内田一郎
大学院の修士課程を修了する春まで、あと半年余りという頃、2つの就職先のどちらを選ぼうか贅沢にも迷っていた私に電話があった。「もしもし、一郎君、中杉の教員採用試験を受けてみないか?」高尾先生からである。突然の話ではあったが、10代の子供たちの成長に関わることができる職業は、おもしろそうだと思い、快諾、受験・そして朗報。思ってもみなかった進路変更となる。
4月、始業式において新任教員として紹介された私は、深大寺の神代植物公園に連れていかれ、「俺は、中杉の職場では一匹狼でやっている。お前はどうする?」と予期せぬ鋭い突っ込みを受ける。これまた高尾先生であった。「日和らずにやっていきたい」という主旨を告げたことを今でも覚えている。これが高尾先生と私の同じ職場における先輩・後輩関係の始まりとなる。
以来24年間、高尾先生は私にいろいろな背中を先輩として魅せてくださった。たとえば、小学生の私が中央大学の職員である伊藤晃氏の指導を受けていた頃、中杉のプールサイドで「若大将」の石原裕次郎と見紛う装いと風貌で中杉生と談笑する先生がいらした。かつての高尾先生である。
ところが、私が就職した頃からは、次第にスーツと上品な鞄の似合う男に変化されただけでなく、数学教育の研究に熱心に取り組まれ、日本の高校数学のリーダーの一人にならんとする勢いで様々な活動を展開されるようになっていったのである。
具体的には、早稲田高等学院を始めとする近隣の高校の数学教員と数学教育研究会を発足したり、関数グラフソフト『GRAPES』に関して東京理科大学を含む各種研究会での発表、日本の数学教科書や問題集の編纂・校正活動への参加、ICME(数学教育世界会議)への参加・発表・交流、校内では杉並高校用の「確率」の教科書を作成(私も参加させていただいた。)等々と、枚挙に暇がない程の活動であった。
特にICMEに参加するため、その研究成果のまとめに加えて、英会話能力のブラッシュアップに集中されていたときは、数学研究室内の高尾先生を取り巻く空間には、いつも英会話文が漂っているような(いわゆる高尾先生が数式以上に英語漬け状態になっておられるのではないかという)錯覚にとらわれることが何度もあったのである。
(※ 最近は、渡仏のため、フランス語漬け! いまだ、現役バリバリ、絶好調のご様子は何よりです。)
また、基本である本校の生徒対象の授業研究にも当然のことではあるが、熱心に取り組まれ、生徒を惹きつける話術の工夫を兼ねて、人知れず新宿の末廣亭に足繁く通われていたことを思い出す。(これは、やろうかなと思っても、なかなかできることではないと今でも思う。)
人間、年を重ねると、易きに流れて、築き上げてきた自己の殻を後生大事にしたり固執したりしやすいものであるが、高尾先生はそのときそのときの自分自身の「旬」に「素直」であり、時に変化が必要であると感じたときは、躊躇せず自分の殻を壊し、上述のように次の一歩を踏み出す「勇気」を持ち合わせている。それは、人によっては「わがまま」に見えるだろうし、方向をちょいと誤れば大変なトラブルを招きやすい。しかし、「従順」ではなく「素直」な生き様、何度も土台から築き上げようとする「勇気」と「根性」を体現する高尾先生の背中はとにかく「きわどくかっこいい」のだ。だから、どんなに羽目をはずしても、下に落ちず、上品で繊細な感覚を維持している高尾先生は、杉並高校教諭の先輩として私の誇りなのである。
高尾先生がご退任されるまでのこの4年間、私が教頭職に取り組み、80%程度全うできたのは、後輩として、20年の間に高尾先生から学び取ってきたこの「素直」と「勇気」があったからだと信じている。これからも、何かを「築いた人」ではなく、何かに「気づいた人」として、「日和らず」に「素直」と「勇気」に磨きをかけていきたい。高尾先生、大変ありがとうございました!一緒に働けたことを感謝します!
「きわどくかっこいい」を次に目指す者は、「シゲ」先生と「たつ」先生でしょう!ご安心ください。(笑)
2007年2月24日
高尾弘先生退職記念・最終授業 『私の愛した数式』
~高尾弘のtと僕らの曲線は…永久に不滅です~
幹事代表・木場正博(6期生)
東京オリンピック開催を半年後に控え、日本中に活気が溢れていた昭和39年、春、4月。開校1年目の中央大学杉並高等学校の教壇に、ひとりの痩身の若者が立った。
希望に燃えた青年・高尾弘が教師人生の第一歩を踏み出した43年前の春だった。
それから42回の春が過ぎ、43回目の春が訪れようとする平成19年2月24日、恰幅は増したものの目元に痩身の若者の面影を残し、高尾弘は中央大学杉並高等学校の視聴覚室の教壇に立っていた。
“高尾弘先生退職記念 最終授業『私の愛した数式』”の日である。
午後2時10分、イントロのオープニング映像がスクリーンに映り出される。校門横の桜のアップ、『さくら~独唱』をBGMに教師・高尾弘を語る高尾先生、若き日の写真、授業風景、1コマ1コマが34年間の教師人生を回想する…そして映像フェードアウト、同時に響く始業のチャイム。
いまや“日本で五本の指に入る”と称えられる高尾弘の数学の授業、その最終授業が、いよいよ始まった。
かつての教え子が打つ満場の拍手の中、壇上に上がる高尾弘。
その顔には、教師生活43年間を物語る“高尾先生の笑顔”が浮かんでいた。
そして…そこから先はプロフェッサー高尾の、ターちゃんの、弘の…世界。
ユーモアを散りばめ、ギャグを織り込み、パソコンを駆使し、教壇を隅から隅まで動き回り、我等が高尾弘は、それぞれの卒業生が、それぞれ中杉生だったときの高尾先生を再現してくれた。
2004年デンマークでの第10回数学国際会議(ICME-10)における発表内容の紹介の始まり、二次関数、三次関数、四次関数グラフ、軌跡サイクロイドにアステロイド、教師・高尾弘が愛した数式へとテンポ良く展開される。
正直言って一般卒業生にとってはアカデミックな内容だった。にもかかわらず、誰ひとり居眠りをする事もなく、高尾節の中でひたすら熱心に授業に没頭した。
今だから明かす。 最終授業の案内文にも記した“日本で五本の指に入る数学の授業”という形容は高尾先生が自らおっしゃったのだが、本当はその頭に“寝かさないことにおいて”という言葉が付いており、それを省略、アレンジしたのだ。が、どちらにしても、高尾先生の授業が日本で五本の指に入ることを、最終授業が実証してくれた。
参考までに教師・高尾弘が 最も愛した数式は、
r= ta
1+tcosθ
若干の解説をするなら、この数式は、tの値の変動により放物線、楕円、双曲線の三つの曲線に変化する(のだそうだ)。
先生曰く、「この数式のtは高尾のt、臨機応変、高尾のt」。
だとするならば、そこから生まれる曲線は、僕ら生徒が描いた高校生活の軌跡だ。
例えば高校現役当時の授業で「私の放物線、試してみる」と言う名短文を残した41期生の女子、例えば「高尾先生を目標に数学の教師を目指す」と言う作文を高校最後のテストで書き残した現中大数学科の学生、そしてエンディングで万感の想いを胸に“涙の『仰げば尊し』”を歌ってくれた参加者の皆さん。それぞれが、自分が軌跡を残していることに気付かず、自分がどんな曲線を描いているかも分からず、それぞれに描いた高校時代の軌跡。
後で振り返れば、大きな放物線だったり、結構小さな楕円だったり、華麗な双曲線だったり…自分なりの曲線が思い出という名で残っている。そして、その曲線を描かせてくれたのが高尾のtであり、中杉の先生方=teacherのtだったということに気付くのだ。
つくづく思う。山崎省次先生の最終授業のときにも感じたことだが、 ―――『仰げば尊し』である。
これから先も、中央大学杉並高等学校という学び舎のなかで、tと曲線の関係は永久に続いていく。
〈あとがき〉発起人代表としてご助力いただきました一期・矢田岳さん(杉朋会会長)、幹事最年長でリードしてくださった一期・内藤統祥さん、たくさんの同期の方に声を掛けてくださった35期・渡辺千尋さん、久保知恵さん、田中玲さん、謝恩パーティーをMCで盛り上げてくださった13期・田中(小島)優子さん、二次会を仕切ってくれた20期・野中耕さん、菅谷公彦さん、『仰げば尊し』で盛り上げてくれた41期の皆さん。そして、お名前が書ききれませんが、ご尽力いただいた各期発起人および幹事の皆さん、本当にありがとうございました。
“高尾先生の下、今後もみんなで曲線を描いていきましょう!”という趣旨で、高尾先生最終授業の発起人の皆様を中心に、高尾先生を囲む会『高尾の会』を結成いたします。 この会を杉朋会に登録し、公認のOB・OG会としたいと思います。 基本的には、年一回の先生との懇親会を最終授業が開催された2月24日前後に、現在も行なわれている
~併せて“高尾の会”発足のお知らせ~
“高尾先生の下、今後もみんなで曲線を描いていきましょう!”という趣旨で、高尾先生最終授業の発起人の皆様を中心に、高尾先生を囲む会『高尾の会』を結成いたします。
この会を杉朋会に登録し、公認のOB・OG会としたいと思います。
基本的には、年一回の先生との懇親会を最終授業が開催された2月24日前後に、現在も行なわれている『高尾杯ゴルフコンペ』を初夏に、それぞれ公式行事として開催する予定です。代表幹事は、6期・木場正博が務めさせていただきます。
参加資格は、中大杉並の卒業生で冒頭の趣旨にご賛同いただける方ならどなたでも可。
お申込は、
〔0224高尾プロジェクト=eメールtakao070224@gmail.com〕まで。
なお、すでに最終授業当日、会場で行いました会設立アンケートに賛同を頂きました皆様はそのまま会員として登録させていただきます。
では、みなさまのご参加をお待ちしております。
2007年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
訃報 本学二代目校長 安川定男先生(中央大学名誉教授)ご逝去
本学二代目校長の安川定男先生(中央大学名誉教授)が、1月14日に肺炎により逝去されました。87歳でした。
生前のご厚情に深く感謝申し上げるとともに、故人のご功績を偲び謹んで哀悼の意を表します。また心からご冥福をお祈り申し上げます。
杉朋会会長 矢田岳夫
2007年01月19日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
鹿島真知子先生(平成18年3月退職)
中央大学杉並高校に感謝!
鹿島真知子
1974年の雪の日、第一代校長の鈴木俊先生をお訪ねし、杉並高校の採用が決まった。当時の杉並高校は木造3階建で校舎の床にはアスファルトが塗られていてかなりひどい建物であった。その3月に前任校を退職し結婚をしての就職であったから、すべてが新しく新鮮なスタートであった。まもなく、妊娠したことがわかったが、女性でも仕事を続けるのは当然のことと考えていたので私の中には何一つ心配する気持ちは起こらなかった。後でわかったことだが、結婚したら女性は仕事をやめるとか、子供ができたら仕事は続けないという風潮は一般的であり、杉並高校もしかりであったようだ。
初めて担当した、7期生の男子たちは一クラスが60人余いて彼らを集中させることが難しかった。生徒たちは私の身体的変化に対して「先生、椅子に座って授業しろよ」と大人以上にやさしく労わりのある態度を示してくれた。また、12月末日に生まれた第2子のときもまだ十分産休の制度がなかった時代で12月終業式まで勤務したのだが、どの生徒たちの姿勢は変わらずやさしく、担任をしていた9期の女子は朝会に行くと週番がすでに出欠を取り終っているし遅刻も欠席も大変少なく、本当によく協力してくれた。子どもでも相手の立場を考えることができるのだという思いを強く感じ、私も誠意をもって接し、生徒にとってよき相談相手になろうと決心するにいたった。
生徒たちが手を差し伸べてくれたのと同じように助けてくれたのは学校の中で働く事務室の人々、保健室、用務の人、生協の売店、食堂の人たちで私のことや学校のことをよく見ていて、体調の悪いときに声をかけてくれたり、生徒の教室で見ることができない面を教えてくれたりしたものだ。もちろん同僚たちは教科についての知識や生徒の問題など時々に相談にのってくれ解決の糸口を作ってくれた。
卒業時に担任した8期・13期・15期・20期・26期・30期・35期・41期、一年間だけの担任、一学期間だけの担任、授業で担当した数々の生徒たちのその当時の姿が浮かんでくるとそれはいつも順調でなかったときや生徒が問題を起こした時のことであった。その解決がわからず同僚に助けを求めたり、生徒の気持ちを理解する方法を求めて上智大学のカウンセリング研究所等に通ったりしてきた。
あらためて私が生徒たちに伝えたかったことは何だったかを考えてみると、ある人の人生はその人のものであるということ、人は一人一人受け止め方が異なること、自分と違う人の存在を気づくことであった。そして、自分を大切にすることは他人を大切にすることである。これからも私は、言葉や態度でコミュニケーションをとり相手を理解しようとする気持ちを持ちたいと思っている。
私が考えるように生徒が行動し、一般的にいわれる良い生徒ばかりであったら、私の成長はとまり自己満足で終わってしまう教師になっただろう。
3月末に杉並高校と別れて思い起こしてみると約37年という長い年月、私の生活の半分以上を杉並高校で過ごしたことになる。
その時代時代の生徒たちとともに成長させてくれた杉並高校に感謝する思いでいっぱいである。
中央大学杉並高等学校に栄光あれ!
鹿島先生、お元気ですか
地歴公民科 高橋 政安
長年、私は教科では一番若い教員として勤務してきました。それが理由ではないのですが研究室には一番乗りの日々でした。毎朝、社会科研究室で仕事?をしているとやがて鹿島先生が出勤してきます。「おはようございます」の挨拶をかわすやいなや先生は「ごめん、ちょっと本やノートを移動して」と言って大机(研究室に入るとすぐの所にある教科の共有物としての机)の上を手際よく拭き掃除をします。ここから私の一日が始まります。
週六日制の時代では授業のないあき時間が先生と重なることも多く、先生から授業のあり方や生徒指導などについていろいろとアドバイスを受けることができ、たいへん助かりました。放課後にもずいぶんとお話を聞くことができました。いまさらですが感謝しています。
そして時は移り、中杉は、男女別学から共学へ六日制から五日制へ社会科研究室は地理歴史科・公民科研究室へと変わっていきました。しかし、先生との朝のやりとりから始まる日々は変わる事はありませんでした。ただ、先生は忙しい毎日の中で研究授業の実施、校外学習の生徒引率、毎週のカウンセリング講座受講など精力的に活動をしていました。また、よき相談相手として生徒から慕われ前よりも一層、たくさんの生徒に囲まれて先生の周りはいつも賑やかでした。ですから全部が以前と同じ訳ではなかったですね。その姿に私は、羨ましさを感じることもたびたびありました。
その先生にある日突然、「私、退職する。」と研究室で告げられたときは、人、それぞれ事情があるのだと思いながらも、やはり衝撃を受けました。それから、しばし困惑の期間を経て今、私は教科で最年長者になっています。先生から学んだ様々な事は、私にとって非常に貴重なものであります。これからの教員生活で生かしていきたいと思います。
鹿島先生、長い間、気を使ってあれこれと考える場面が多かったと思います。これからはゆっくり休息をとってほしいと思います。でも先生のことだからきっとこれまでやりたかった事をしようと休む暇がないのではと思っています。無理はいけませんよ。どうぞお元気でいてください。本当にありがとうございました。
あっ、それから研究室の大机の上は、先生の予想どおり書籍や印刷物で芸術的な状態になっています。ではありますが地歴公民科の先生方は、そんなことを気にせずにみんなたくましく元気に頑張っています。鹿島先生、中杉の様子(特に研究室)も時々みにきてくださいね。それではまたお会いする日を楽しみにしています。
2006年06月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
辻 博康先生(平成18年3月退職)
退職にあたって
辻 博康
2006.5.29
卒業生の皆さんお元気ですか。
私はこの3月末日をもって中央大学杉並高校を定年退職しました。
昭和39年に奉職以来、42年間の永きにわたって勤務させていただいたことになります。その間、授業・担任・化学部・サッカー部・茶道部・ゴルフ部・生徒会等で多くの方々と接することができ幸せでした。幸い体力的にも余力を残して退職することができました。
これからは趣味のゴルフをやりながら、日本伝統文化の茶道の普及につとめたいと思っています。
これからの私の生き方は「無事是貴人」の生き方をしたい。これは私の茶道の師範から頂いた掛軸に書かれている言葉です。この言葉の意味を、“事を起こさない人は立派な人”程度に考えていました。ところが調べてみると、深い意味がありました。
この言葉は臨済録に「無事是貴人なり、ただ造作することなかれ、ただ是れ平常なれ」の一部分であることがわかりました。その意味は、あれこれと思案をめぐらすな。何も求めず、無心に過ごせ。平凡な人、是れ非凡。 無事とは何もしないことではなく、積極的に外に向かってではなく自分に向かって「造作」すること。
*造作とは「面倒くさい」「むずかしい」の反対語
当然のことを造作なく当然にやることが、平常であり無事ということ。いかなる境界におかれようとすべて造作なく処置して行く事ができる人が「無事是貴人」というべきと書かれています。
私の亡き師範が「無事是貴人」を目標に生きなさい。と言ってくれているように思うようになりました。
以上、簡単ですが中杉の発展と卒業生の皆様の益々のご活躍を祈念して、退職の挨拶といたします。
辻先生との32年間
理科(化学)教諭 海老原真純
1974年(昭和49年)春、まだ中杉が木造校舎だった頃、私は化学の講師として初めて中杉に来ました。そのとき、最初にお会いした先生が白衣姿の辻先生でした。今考えれば私とそう歳も違わなかったでしょうに、しかしこの年に教師になったばかりの私からみると、辻先生は大層大人にみえたものでした。化学の教科書を渡され、「この範囲をやってくれれば、好きにやっていいですよ。」と言われました。新米なのに一人前に扱ってもらえた喜びと頑張ろうと決意したその日のことを、30年以上経った今でもはっきり覚えています。
私の長い講師生活の中で、中杉ただ一人の化学の専任教諭である辻先生には大変お世話になりました。化学実験中の生徒のケガもありました。今、専任の立場になって考えてみると、講師の授業時間中に事故が起これば、生徒の対応・保護者の対応・教員会議・保健室関係など様々な事柄が生じ、時間的にも精神的にも随分大変な事になるとわかります。当時も先生には充分に感謝していましたが、専任としての立場のわかる今ではしみじみとその優しさや有難さを感じます。
この30年間余り、私はいつもいつも忙しい授業をしています。教科書を進めなければ、もう1問多く解いてもらおう、実験技術も教えなくては…など、言うこと・やることが多くて、大きな声で全エネルギーを使っての忙しい授業展開です。ところが辻先生はとても静かに淡々と落ち着いた授業をなさるのです。また、実験前には生徒にビデオを見せ、ビデオのレポートも提出させる。私にはビデオの時間は到底取れません。しかし不思議なことに、辻先生の試験範囲は私と同じなのです。採点の素早さはすごいです。テスト終了とともに採点を始め、気が付くともう終わっています。時間は平等に与えられているはずなのに、どこからそんな時間が生まれるのかはとうとうわからずに今日まできてしまいました。
『全てにおいて、ゆったりと構え、大げさに騒がず、何事も手早く淡々とこなす』これが辻先生流の仕事の仕方なのかなと私は今思っています。
辻先生と過ごした32年間を語るにはこのスペースでは到底足りません。
最後に、「辻先生、本当にお世話になりありがとうございました。中杉理科はみんなで協力しあって、これからも頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いします。」という言葉で終わります。
2006年05月23日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
根本俊臣先生(平成18年3月退職)
わが半生
根本 俊臣
定年を向い心静かに日々を憶う境地には到達していない、多忙な日程に追われ、一日一日が過ぎて退職の間際になってもとてもその心境になれなかった。
先輩諸兄の言われたことが、今さらながら思いを深くした。特にこの一年間は、苦悩と苦痛の中で無我夢中のままに年度末がきてしまった。今、ようやく退職の実感が湧いてきた心境である。
四十三年間にわたった教職生活を終ってほっとしているというのが、正直な気持であるが、同時に様々な想い出が頭の中で駆け巡っているのも事実でもある。
私が中大杉並に採用になったのは、昭和三十八年三月一日、中央大学杉並高校という校名が継承され、新しく誕生する高等学校の開校準備教員であり、中央大学在学中にかかわらず新設学校準備教員として、日々奮闘せざるえない状況でもあった。
初代、鈴木俊校長の下、僅か七名の専任教員で六学級編成の開校。中大付属校が新築移転後に残された老朽化著しい木造三階建校舎、プール横から観泉寺まで区民が校庭を横切る公道が校地を二分しているなど、今では想像を絶する条件の中での出発。七人の教員・七人の侍の戦いが始まりました。過去の事例が全くなく、新しいことの取り組であり、付属二校の取り組を視て参考になるものを採り入れていくことは、教育を間違いなく進めていく上で有効な手段であるが、付属校、横並び意識からの脱却も求められ、女子校構想から男女別学、共学校へと変改されてきました。
私は、教職人生の中で、専門教科の以外に実に多くの仕事を経験することができました。全国高体連陸上事務局長の仕事五年間。市教育委員会を四年間従事した。それらの仕事の中には、教員になるときは予想もしなかったような事務的内容の業務も含まれるとともに、自分の企画を実施することができたことは、教育というものを考え直す機会となりました。これらの仕事は、不幸にしておきた不慮事故の対処にも十分に生かされることができました。
勤続四十三年は長いようだが瞬時のようにも感じられます。昭和三十二年、中大杉並高校入学、中央大学と中央大学杉並高校、わが人生の五十年中央大学とともにありました。
根本先生 お世話になりました
保健体育科 児玉美絵子
根本先生は、中大杉並の創立当時から、本校の保健体育と行事に関する礎を創ってこられました。初期の頃は入学試験に体育の実技があったとお聞きしましたので、根本先生はじめ中杉という学校が、どれだけ体育を重視していたかが伺えます。まさに「質実剛健」の体育学校で、今の中杉生の柔らかいイメージからは考えられないたくましい高校生が多かったようです。そんな彼らを、根本先生は体育科の中心になって、徹底的に鍛えてきました。
私が中杉に入職したのは十四期生と同時でした。根本先生といえば、とてもダンディで、スーツ姿もジャージ姿も、またスキーや登山でのウェアーもそれはおしゃれでした。ご一緒させていただいた数々の実習では本当に楽しい思い出がいっぱいです。スキーでは、引率教員皆でトレインをしたり、ナイターで繰り返し「滑り」の研究をしました。登山では、高山植物の花の名を必死で覚えたり、山頂でコッフェルでコーヒーを入れたり…そんな先生の、自然を愛し楽しみその良さを生徒達に伝えたいという思いから、中杉には、林間学校・スキー教室・スケート教室・水泳教室・マラソン大会など、とても多くの野外活動の行事がありました。私はそのような行事を通して学校の中での体育というものを学ばせていただきました。
また先生には、私事でもたいへんお世話になりました。私が中杉に専任として勤めさせていただいた時に、体育科の主任をされていた先生に「今年、講師で同じ大学の人が来るよ」と言われ、その名前を聞いてビックリしたのです。なんと私が大学時代憧れていた児玉君(つまり私の夫です)だったのです。根本先生が私たちを採用してくださらなかったら、今のわが児玉家はありませんでした。そんなわけで、公私ともども、家族ともども何から何までお世話になった恩師です。
都会育ちの私がいろいろな中杉の行事を通して、山や自然が大好きになり、そのすばらしさを人生の中に取り入れることができるようになりました。先生に最初に連れて行っていただいた福島県の安達太良山が見える場所に、山の家を建て、長期休みに訪れ季節の移り変わりを楽しんでおります。自分の退職後には田舎で畑仕事などまで考えています。そんなきっかけを作ってくださった根本先生に本当に感謝しています。
長い間、中杉のためにご尽力いただきありがとうございました。先生をはじめ諸先輩方の作ってこられた中杉のよき伝統を、大切に次に伝えていくことが私たちの務めと考え、日々努力してまいりたいと存じます。
これからもお元気でご活躍くださいますようお祈り申し上げます。
2006年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
堀口 興先生(平成17年3月退職)
副校長 堀口 興
私もいよいよこの3月で定年を迎えます。中大杉並高校に勤めた期間は講師の2年間を含めると42年間になります。34年間は理科(地学)の教員として、最後の8年間は教頭と副校長の職まで務めさせていただきました。今になってみると、アッという間の42年間だったようにも思えます。この間、地学の教員として授業やクラブ活動を通して生徒達に自然を学ぶ面白さや楽しさを伝えられたとしたら望外の喜びです。そして、同僚の先生方、生徒諸君、保護者の皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。
教員は、大学を卒業して教壇に立つとすぐに「先生」と呼ばれるようになり、生徒を教える立場になります。確かに学問の面で生徒達と比べれば「先に生まれた」だけはあり、知識や経験はあります。しかし、私は生徒達からむしろ教員としてのあり方を逆に教えられた、育てられたと思っています。
今から考えればあの時こう言えばよかった、こうやればよかったという失敗が沢山あります。結論を急ぐあまり自分の考えを押し付けてしまったこともありました。失敗から多くを学びました。最初の保護者会の時、会の進め方まで頭が回らずモタモタしていると『先生、保護者会はこうやるんですよ』と、あるお母さんがそっと助け舟を出してくれました。
クラス担任として多くの生徒を卒業させましたが、クラス担任として最初の教壇に立つとき、いつも私は「良いクラスにしよう」と生徒に呼びかけます。そのとおりに良いクラスになりました。私は生徒達にも保護者にも本当に恵まれていました。もちろんクラスには、優秀な生徒ばかりではありません。私の注意に耳を貸そうとしない生徒もいましたし、遅刻や欠席の多い生徒、処分された生徒もいました。「先生の言う事が正しいことは分かるけど、先生の思うようにならない生徒だっているんだ」と泣いて私に抗議した生徒もいました。
でも、そういう生徒の方が、教師としてのあり方を多く学ぶことができました。今、そんな生徒一人一人の顔が脳裏を駆け巡ります。『人は子供を生んで親になるのではなく、育てることで親になる』といわれますが、先生も同じことが言えます。教壇に立つことで先生になるのではなく、生徒と一緒に学ぶことで本当の教師「先生」として成長するのではないかと思います。
昭和38年、現在の中大附属高校が残した古い校舎と名称を受け継ぎ、新しい中大杉並高校が発足しました。私達は「附属高校は鉄筋コンクリート4階建ての新校舎、中杉は木筋板クリート3階建てのボロ校舎」と揶揄しました。しかし「教育は建物で決まるのではない、中身で決まるんだ」と負け惜しみを言いましたが、実は本当にそう思っていました。
私達は早く中附に追いつき追い越せという意気込みで、若い先生方は団結していました。東京都の学校群制度や大学受験の難化による私立大学の付属高校評価の高まりが追い風となり、次第に中杉の評価も高くなっていきます。中杉の草創期に奉職された当時若手の先生方は燃えていました。教員としての技量の向上は、杉並高校のレベルの向上と発展とに一致していました。
クラス運営の方法や生徒指導・進路指導については先輩の先生からも多くを学びました。大先輩と同じようにできなくとも自分なりに工夫しました。教員室や地学準備室で仕事が残って夜遅くなっても毎日が楽しかった。地学部の生徒たちと一緒のクラブ活動も楽しかった。振り返ってみると不思議に楽しかったことばかりが思い出されます。
いよいよ、この3月で私も中杉を卒業します。先生方、生徒達、OBの諸君そして御父母の方々、長い間本当にお世話になりました。有難うという感謝の気持ちで定年を迎えられることは本当にうれしいことです。
近年、高校を取り巻く環境は大変厳しいものがあります。最後になりますが、中杉がこれからも良い学校として益々発展していくことを心から願っています。
以上
堀口 興先生の思い出と略譜
副校長 石川和明
2005.5.21
先生は杉並高校創立の昭和38年から教鞭を執っていました。最初の2年間は講師として以後昭和40年から今年3月に定年退職するまでの42年間に渡って大きな足跡を残しました。地学・生物の授業を通して多くの生徒に自然に対して興味、好奇心を起こさせる授業を展開していました。授業は無論のこと生徒指導にも力を注ぎ、先生の誠実な人柄と信念を持った教育方針、指導に薫陶を受け様々な方面で活躍している卒業生は数多くいます。
先生が自然に興味を持ったのは都立神代高校の教員であった関東地方第4期の研究の第一人者であった羽鳥謙三氏であったと聞いています。学芸大学でもライフワークとして千葉県成田層の研究、微化石の珪藻分析と分類に没頭したということです。
杉並高校でも生徒が下校後に地学準備室で夜遅くまで顕微鏡の前にいたことを思い出します。昭和53年から平成12年は日本学生科学賞を視野に据えた部活動を精力的に行っていました。善副寺池の調査に始まり、千葉県富津岬の現棲貝類の調査を継続的に実施し、この間に科学賞に応募し優秀賞、努力賞、あるいは奨励賞を毎年受賞しています。とりわけ昭和62年には全国大会で3位の最優秀賞を授与されています。
先生自身の研究も進展し、千葉県成田層に関する学会発表を2回、専門とする地質、珪藻分析に係わる三編の論文が地質学雑誌に掲載されています。
平成9年から平成12年までは2期4年にわたって教頭職に就き、平成13年からは2期4年にわたって副校長となり、この間にオックスフォード語学研修(1998)、中山外国語学校との協力協定(2001)、帰国生入試(2001)、一般公募入試の導入(2002)、ユニティー・カレッジとの協力協定締結(2004)に携わり、中大杉並高校の体制つくりに取り組んでいました。この時期は校務に時間を割かれ十分に部活動を指導する間がなくなりましたが、生徒を引率して富津岬でのカニ類、ニホンスナモグリ、アナジャゴなどの現棲生物の巣穴と狭山丘陵における化石として残る巣穴を比較研究してその成果を武蔵村山市の地形地質資料集(11年)と通史編・上巻(平成14年)に生痕化石と珪藻分析報告として掲載され、刊行されています。
教頭、副校長になってから多忙になってしまい論文提出が遅れてしまっているので退職後は、それらの宿題を完成させたいとのことでした。
堀口先生、長い間、ありがとうございました。
2005年10月28日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
松村光雄先生(平成17年3月退職)
退職にあたって
松村光雄
2005.4
1969年4月から定年まで、「倫理・社会」のちに「倫理」を担当してきました。きっと憶えている諸君もたくさんいるだろうと思います。ぼくはそのとき29歳で生徒は17歳ですから、干支でいうとちょうど一回りしか違わなかった、それほど若かったということになります。
教員も若いひとが多く、学校全体がよい意味で青春模様でした。学校行事や授業計画などの話し合いは、みな前向きで教員同志が思いやりをもって接していました。それは生徒にもなんとなく伝わるのでしょうか、明るく屈託のない生徒が多かったように思います。
中杉の教員になることができたのは全くの偶然でしたが、とてもよい学校に勤めることができたと大いに喜んだものです。世の中がある時点で急速に変わり、それにつれて学校もまた望まない方向への変化を余儀なくされた面はありますが、中杉の一教師である喜びは最後まで持続できました。
今年になって、定年退職の挨拶を書いたり話したりすることが数回ありましたが、考えてみれば、この場が一番それに相応しい筈です。ぼくの授業を受けた卒業生はほぼ一万人位もいる筈ですから。でも一番印象にのこっているのは教師に成りたての頃のことです。
いま思い出してみると、どうやって毎日の授業をそれらしく遣り終えることができるか、生徒たちが聴いてくれなかったらどうしようか、そんなことで頭がいっぱいになり、下調べはそんな思いとの戦いのうちに深夜まで続いたものでした。授業がうまくいったかどうかは、生徒たちの反応で、手に取るようにわかります。生徒の反応がよければ、そういう日はほとんど疲れがのこりません。そうでない日もありました。そういう日々が3年くらい続いて、ようやく余裕をもって授業に臨むことができるようになりました。
正直に告白すれば、慣れてからの授業よりも教師に成りたての2~3年くらいのほうが生徒は乗っていたように思うことがたまにあったりして、そういうときは内心忸怩たるものがありました。「倫理」の授業というと、俗に言う「為になる話」を期待する生徒もいて、父母と同僚とを問わずこの期待は部分的にはかならずあって、ぼくの授業を受けた生徒は年度の半ば以降には、その俗説からは解放されたのではないか、そうであれば「倫理」を学んだ意味は大いにあったと思っています。
退職後3ヶ月目にはいりました。一番大きな変化は、明日のことを考えずに毎日を送れることです。これがこんなに素晴らしいことであるとは、実際に体験してはじめて納得できました。日課といえば、1時間歩くこと数分瞑想することくらいです。注意していることは食べ過ぎないこと争わないことです。いまのところ、小事を除けば、いたって健康です。最後に、中杉の発展と会員諸君の益々のご活躍を祈念して、退職の挨拶といたします。
送る言葉
鹿島真知子
2005.6.30
2004年度の土曜講座の聖書講読は、3年生3名と保護者2名、教員1名の参加でスタートしました。翌年3月末まで続いた講座は、松村光雄先生の最終授業になりました。
岩波文庫、塚本虎二訳の新約聖書『福音書』の20ページにみたない箇所を週1回1年間かけて歴史的背景や各時代の解釈等を加えながら講義していただきました。
マルコによる福音書が中心の講義でしたが、マタイとルカを並立させてその記述の違いを鮮明にされ、マルコの記述がイエスの死の年代に近いことや他の福音書の基礎になっている点がわかりました。また、講義が進むうちに私が感じたことは、先生の読書量の多さや思索の深さでした。クライマックスである十字架から死にいたる場面では、イエスが自分を救おうとしなかった理由の説明として、イエスには神に従うことのみしか与えられていなかった、自分を犠牲にしてまでも他人のために祈る、そこに人間を愛するあるいは人間を許すということがあるのだと強調され、「ここに信仰の分かれ目があるのでしょう」とご自分が信仰に近づかれたことを吐露されました。
最終回は、いつもの緊張した空気と異なり、バッハの『マタイ受難曲』を聴き、和やかなうちに終わりました。
30余年間、高校生には難解かと思われる古典、「ソクラテスの弁明」や「饗宴」などに直接触れるという独自の授業を展開され、自我の目覚めの最中である高校生にとって不可解であると同時に深く興味を感じるところとなっていました。卒業生の中には、先生の授業の影響を受け哲学に進むものもいました。
長い間、多くのことをご教授いただきましてありがとうございました。
- 最後の一週間の出来事(マルコによる福音書)
- 第1日 ニサン月10日(日曜) 都入り 神殿巡視 1章01-11節
- 第2日 ニサン月11日(月曜) 無花果の花を呪う 宮清め 11章12-19節
- 第3日 ニサン月12日(火曜) 無花果枯れる 宗教家との論戦 神殿壊滅の預言 終末の預言 11章20-13章37節
- 第4日 ニサン月13日(水曜) ある女が香油を注ぐ 14章01-11節
- 第5日 ニサン月14日(木曜) 過越しの食事準備 14章12-16節
- 第6日 ニサン月15日(金曜) 最後の晩餐 オリブ山に行く ゲッセマネの苦祈 捕縛 審問 十字架 死 埋葬 14章17-15章47節
- 第7日 ニサン月16日(土曜) 墓中 [安息日〕
- 第8日 ニサン月17日(日曜) 女たちが香料を買う 復活 16章01-08節
2005年06月30日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
中野幸一先生(平成17年3月退職)
ゆったり散歩
中野幸一
退職してから毎日が「日曜日」。
朝の涼しい時間帯、出会う人に「おはようございます」と元気に挨拶しながら、自分のペースで自分に合った運動。こんな一日のスタートも楽しいと思い、二時間半の「ゆったり散歩」を始めました。
浅川合流点から南浅川の陵南公園の桜並木まで、木や土のぬくもりに触れ、風のにおいなど心地よい空気を感じています。
振り返れば、昭和四十年四月就任以来、バスケットボール一筋。身体を使って指導していたに過ぎず、勝てない駄目なコーチの見本のようなものでした。
就任間もない頃、バスケットボール部がインターハイに出場するにはどうしたらいいのか毎日考えていました。バスケットボールが大好きな生徒が集まってはいたものの、部員の数は少なく、体格や運動能力に恵まれていたわけではありませんでした。最も大きな課題がスタミナでした。上を目指すには、四十分間という試合時間を走り通す脚力とスタミナが不可欠です。連日、徹底的に練習に励みました。部員が翌日登校しないのではないかと不安になったこともありました。普通なら相手にしてもらえないような強豪チームの中大附属高校にも、兄弟校のよしみで胸を借りました。試行錯誤の連続でしたが、最後まで望みを捨てない、団結力のあるチームヘと成長し、遂にインターハイに出場しました。
今思えば未熟な指導でしたが、生徒が一日として休むことなく、多くの困難にも負けず、自分たちで培った気力と技とで獲得した最高の勝利だったと思います。今も心の奥に強烈な印象で残っています。この体験は私にとって人生のピンチを救ってくれた大切な宝です。体育科の協力と支援、学校側の理解を得て、良い思い出ができました。感謝しております。これからも前向きに努力していくつもりです。
それでは皆様のご健康とご多幸をお祈りいたしております。
ありがとうございました。
中野先生の思い出
根本俊臣
中野幸一先生は、中杉創立、間もない初代の鈴木校長期に高校教諭の経験者として中杉の体育に新しい風を吹き込む先人として赴任されました。
着任時の本校の体育指導方針は、高校生活の中に多くの運動に触れさせる。全校生徒が何らかの運動経験を体得し、部活動では選手強化優先方針を排除し、放課後もすべての体育施設を開放し多くの生徒にスポーツの機会を与えることが教育政策であり校長先生の体育・スポーツへの考えであり、また、それが強く打ち出されていた時期でありました。
体育科教員の田村、中野、根本、藤川(中大教授)は、保健体育科の目標を中大正科体育の中核になる生徒の養成。体育行事新設によってスポーツ体験の機会を多く与える方策を立てるとともに、体育授業の充実に努めることを基本目標として、中野教諭は即座に体育補講を実施し放課後に止まらず昼休みも惜しんで指導。それに止まらず合宿にも参加させることになりました。当時の夏季合宿は合同合宿であり、その合宿に体育時間の欠席の多い者を種目選択させ参加させ、マラソン大会も3年生を招待選手の名目で同じような生徒を参加させるなど、中杉の体育への積極的な参加態度養成、体力・技術向上を目指し率先し行動に移され、中大体育の本校履修者に高い評価がされるようになり、中杉体育学校という名称がつくほどの強力充実した指導内容でありそれが生徒の誇りでもありました。
この状況は、部活でも大きな影響をあたえ、学校の方針とは裏腹に活躍する選手を多数輩出するようになり、中野先生のバスケットボール部は当然に、バレーボール部、水泳部、陸上部、テニス部、ボート部の全国大会を始め国体出場と多部にわたる活躍の基礎となる体力向上に結びつくことになりました。中野体育学校とも呼ばれる中杉体育の一時代を築かれ、今は懐かしい思い出となりました。
2005年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向
山本季夫先生(平成17年3月退職)
四十年を振り返って
山本季夫
2005.4
今年の3月31日をもって、40年間勤務した中央大学杉並高校を定年退職した。
それから約3ヶ月経った現在、ようやく勤めのない生活に慣れ、朝起きてのんびりと新聞を読み、ゆっくりと朝食を楽しめる境遇となった。
ところが、最近ときどき学校の夢を見る。決まって窮地に立たされている夢だ。例えば、自分の試験が次の時間に始まるというのに、問題が出来ていなくてあせっているとか、次の時間に数学の教師でもない私が数学を教えることになっていて、生徒が教科書を出して私の授業を待ち構えている、といった光景である。「そんなバカな!」と憤然として叫んでいるうちに目がさめてほっとするのである。
私はよく“のんびり屋”だと評される。また細かい事にこだわらず、いらいらすることもなく鷹揚に見えるとも言われる。ところが私には大変神経質な面がある。例えば、試験問題は必ず数日前には準備しておくとか、成績は提出の締切日より何日か前には出しておくとかである。もし万一不測の事態でも起きた場合を考えると、おちおちしていられないからだ。だから、試験時期が近づくと、いつも何かに追われているような気持ちで過ごしてきたのだ。授業に関してはどうかというと、これも自信がない。前日のクラスでやったのと同じ内容の授業でも、次にやる時はまた下調べをしておかないと不安でしょうがないのだ。こんな気持ちが今頃夢となって現れるのだろうか。
このようなことを書くと、いかにも自信のない暗い人生を送ってきたかのように思われるかも知れないが、これは私のほんの一面であって、実際はもっと楽しく明るい教員生活だったと言える。
よく卒業生から、中杉は自由な学校だったという声を聞く。必ずしもそれほど自由だったわけではないと思うが、おそらく精神的に自由だと感じさせる雰囲気がこの学校にはあったのだろう。実は、教師にとっても中杉は自由を感じさせる学校だった。日頃の教育活動に対して、上の方からあれこれ制限されることも少なく、いいと思われることは何でも自由にやることができた。
また有難い事には、教員の研究にはおしまず応援をしてくれることだ。私も若い頃は毎年夏休みに、必ずどこかの研究会に参加したものだ。とりわけ1975年のアメリカ研修と94年のイギリス研修は、私の英語教師としての人生にとって大きな転機となった。英語を志す者にとって、一度は英語文化圏で英語を使って生活したいという夢がかなえられたのだ。夏休みをはさんで3ヶ月間アメリカで研修したことで、やっと英語教師として一人前になった気がした。さらにその後のイギリスでの研修において英語・英語文化の奥深さを体験した。これらの機会を与えてくれた中央大学と杉並高校に対し感謝の気持ちでいっぱいだ。
最後に、無事に定年を迎えられたのは、良き先輩と同僚にめぐまれたこと、そして様々な分野で活躍している同窓生と在校生諸君のおかげである。心からお礼を申し述べたい。
山本先生の思い出
菅井恵子
2005.4
山本先生と言えば、一番に颯爽とした白いショートパンツ姿でテニスをされている姿が今でも目に浮かびます。私が生徒として中杉に入った頃は、放課後といえば(空いている時間はいつでも?)先生方はクラブに邪魔にならない程度に(?)頻繁にコートに出てテニスの真剣勝負を楽しんでいらっしゃるのが当たり前の光景でした。そんな中で山本先生は、いつも女生徒の熱い応援の声を集めていらっしゃる“ダンディー”な先生でした。
私が山本先生に直接ご指導いただいたのは、なんと言ってもイギリス、オックスフォードの海外研修の引率をした時のことです。先生にとっても私にとってもオックスフォードは、それぞれに1年という長い月日を過ごした思い入れのある場所です。赤い2段バスの走るカーファックスの交差点や、不思議の国のアリスやハリーポッターがひょっこり顔を出しそうなクライストチャーチの広い庭園やダイニングホール。キャップ・アンド・ガウンに身を包んだ学生たちが流れ出てくる卒業の日のシェルドニアンシアターと書店ブラックウェルの本のにおい。どれも中杉の生徒たちに体験して欲しい、山本先生と私のオックスフォードの思い出でした。
先生は、2年遅れて引率に出た私に、どうやって生徒たちに自立心を持たせて有意義な研修を送らせるか、現地の雰囲気と英語に物怖じする生徒の背中をどう押してやれるか、本当に丁寧にアドバイスしてくださいました。イギリスを愛してやまない先生だからこそ、私たち後輩に中杉の「オックスフォード研修」を大事に育てていくようにと伝えてくださっていたのだと思います。
また、ご自身も保育園の送り迎えにご苦労された先生が、育児休暇から復帰して悪戦苦闘している私にくださった数え切れない程の有意義な実践アドバイスと、暖かい応援の言葉は今でも忘れません。どうぞこれからは奥様とお二人でゆっくりと海外を回られてください。本当にありがとうございました。
2005年04月01日 |
カテゴリ: 3. 先生方の動向




